中田浩二さんを悼む

「かおり風景」第36回掲載/令和3年

 令和2年11月20日、中田浩二さんが黄泉の国へと旅立たれた。「香・ 大賞」の創設来、35年に亘って審査員を勤めてくださった。このエッセイコンテストの育ての親であり、審査会の柱として一貫した審査基準の維持に大きく寄与してくださった。数多くの文芸コンテストが存在する中で、香りを主題にして800字のエッセイにと呼びかけたこの「香・大賞」が、社会的に信頼をいただき一定のファンを獲得してこれた背景には、間違いなく中田さんの豊かな経験に裏付けられた文章家としての矜持があったからこそと思い、改めて感謝申し上げたい。
 昭和を生き抜いた小説家・立原正秋氏は、豊かな感性を駆使して叙情溢れる数多くの作品を残している。彼は、鎌倉の自宅で香を焚いた。その日その季節に応じていく種もの高品質な香を使い分け、香の香りは彼の生活そのものだった。その立原正秋氏の絶筆となった新聞連載小説『その年の冬』を、中田さんは読売新聞文化部の担当として見守っておられた。そのことがきっかけとなり、父・畑茂太郎との縁が生まれた。
 高度経済成長が続きバブルと化しつつあった我が国の社会は、生活の中で香りに立ち止まるようなゆとりは持ち合わせていなかった。父は、五感の1つとして誰もが無意識のうちに駆使している嗅覚の貴重さに意識を止めてほしいとの願いから、香りを主題にしてコンテストを呼びかけようと夢見ていた。「香・大賞」を創設するのに、当初は写真とエッセイの2部門を立ち上げ、そのエッセイ部門は審査委員長として藤本義一さんが就任してくださり、基礎審査を中田さんに一手に引き受けていただくこととなった。中田さんは、投稿される全作品に目を通し最終審査への準備を整え指導してくださった。また、投稿作品の分析を同時に進め、毎年の全体評を担当してくださった。結果として、昭和から平成そして令和への社会の流れが反映された作品群の大きなうねりを炙り出すという、 貴重な足跡を残されることとなった。毎年2月前半の数日間、水天宮近くの弊社東京支店の1室に缶詰状態となり、根を詰めて全作品に向き合ってくださった。その中田さんのお姿を、当たり前のように見守っていた自分を今になって恥じている。読売新聞社の文化部長時代も同じだった。どれほどにご多忙なお立場であったろうと今になって振り返ってみるが、ご本人の誠実なお人柄に若さも手伝って乗りこなしてくださっていたのだろうと思い返して、ただただ感謝の念が絶えない。
 毎年の審査会や授賞式の折に、控室や会食の席で交わされる多様な話題がとても興味深かった。藤本義一さんと中田さんのとにかく幅の広いご経験と柔軟な視点の展開から引き起こされる歓談は、他では耳にすることのない夢物語だった。折に触れ参加してくださる多様なゲスト審査員の存在が、毎年気の利いたスパイスのように新鮮な展開をもたらしてくれた。そんな中、新聞社引退後の中田さんはご自宅の近くに確保された家庭菜園がとにかく楽しいらしく、毎年、その成果の自慢話や失敗談にも花が咲いた。土いじりが好きだった母は、中田さんの畠仕事の手柄話を楽しみにしていたものだった。
 戦後の文芸界の中枢を常に歩いてこられた中田さんが、その豊かなご経験を惜しむことなくご提供くださり育ててくださった「香・大賞」。中田さんが指し示してこられた指針を見失うことのないよう心して、香りを主題にこれからも令和の社会を見つめていきたいと願っている。衷心からご冥福をお祈りし、見守っていてくださるように念じ、永年のご指導に厚く御礼を申し上げたい。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。