Huさん

「かおり風景」第8回掲載/平成5年

 Huさんと会ったのは、タイムズスクエアに近いホテルのロビー。大きなガラス窓の向こうには、あのニューヨークの雑踏がいつものままだ。どうしてこんなところでこのHuさんと会う事になったのか。なぜ彼が、マンハッタンのど真ん中に現れたのか。いつものままにこやかに右手を差し出す彼の表情とその背景の景色が、本当に不思議な取り合わせだった。

 Huさんとは、かれこれ20年の付き合いになる。初めてかれに会ったとき、私は学生だった。日本語の勉強を始めたばかりのHuさんは、一生懸命私に話しかけてきた。まだ海外というものをよく知らなかった私は、彼の気持ちがとても嬉しく、学校の先輩のように親しくなった。二人とも所帯を構え仕事も何かと忙しく、今子育ての真っ最中。それ以来お互いを適当に意識し合うことが楽しかった。

 彼の日本語は20年たった今も大して進歩していない。一時期は英語も勉強しようとしたようだが、けっきょく話せない。とても不器用な人なのだ。世の中の流れに上手に乗って、適当に要領よくこなしていくというようなタイプでは決してない。いつでもどんな場面でも誠心誠意つくす事によって自分の人生を切り開き、家族を守ってきた人という印象を私は強くもっている。中国大陸で革命の嵐が吹き荒れたとき、彼は同郷の知人を頼って香港へ逃れてきた。命からがら身一つで海を渡ったと聞いている。そのHuさんが、頼った知人に信頼され、その娘婿として会社を預かるようになったのも、実直で責任感の強い彼の人間性以外の何物でもないと思うのだ。親戚や会社の中だけでなく世界にまたがる取引先や、あの生き馬の目を抜くような香港の社会で、一城を守り続ける20年間の姿は、私にとっては常に張りのある好敵手として存在してきたように感じる。

 その不器用なHuさんが、今、一人息子をアメリカの学校に入れ、こじんまりした不動産事業を始めようとしている。大陸で20年教育を受け、香港で20年自分の家庭を作り、これからは子供のためにアメリカで生きようとしている。常に帰るところのない彼の人生を見ていて息が詰まるほど胸が痛むのだけれど、ニコニコと楽天的にこなしていく彼の笑顔が、私にはせめてもの救いと映るのだ。

 昼食を誘ってくれるHuさんと、もちろん飲茶にしようとチャイナタウンへ出かけた。英語の話せないHuさんは、十分な案内ができないからと、10年も前からアメリカの学校へ通わせ立派な社会人となっている実の弟をともなっていた。英語と日本語と広東語の輻輳する3人の飲茶はとてもにぎやかなこととなった。注文の内容も蝦餃焼賣などの完全な点心で、支払の時に米ドルを見るまで、マンハッタンの真ん中にいる事をしばし忘れるほどだった。

 Huさんから聞いた興味深い話がある。ニューヨークの中国人社会には今三つの核があるという。私たちが食事をしたチャイナタウンは、歴史のある街で、観光名所ともなるぐらい有名な中国人社会だ。成功した人達もその日暮らしの人々も混在している活気のある街でもある。川向こうのクウィーンズ地区に新しい社会がある。香港の中国返還を嫌い新天地を求めて少しずつ生活を築きつつある新しい華僑の町だという。彼らには教育があり技術力や経済力もある。アメリカ社会との合法的な順応の方法をよく心得ていて、力強い生活力を発揮しているように見受けられた。Huさんの生活圏もこの地域にある。三つめはブルックリンと呼ばれる地域で、大陸から移住してきたいわゆる経済難民達が肩を寄せ合うように集まっているそうだ。精神的にも経済的にも余裕のない状態だろうと想像してしまう。遠く離れた平和な島国からは考える事のできない厳しい現実がそこにはある。 私たちからは一つにしか見えない彼らの社会にも、この複雑な世界の情勢が直接的に反映され、その中で個々の力に応じた生きざまが今も繰り広げられている。

 家族の将来のために不慣れなニューヨークで新しい地盤を築うこうとする我が友に、幸多かれと祈りたい。自らの恵まれた現実につくづく感謝の念を抱きつつ、次の20年、もう一勝負挑んでみたい。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。