嗅覚と笑い

「かおり風景」第32回掲載/平成29年
          

 「嗅覚と笑い」というテーマで思案してみると、上方落語の幾つかの演目と一つの古典文学を思いつきました。落語の演目の中には話の展開の中で匂いや香りが取り上げられるものがたくさんあります。「くっさー!」なんて鼻をつまんで顔をしかめる派手なアクションが伴うシーンももちろんですが、そのような部分的な話題ではなく、演目の骨子そのものに嗅覚活動が取り上げられている作品に注目してみましょう。
 「くしゃみ講釈」は、講談師に仕返しをするために上演されている小屋に出かけ、講談師の熱の入った高座の前で、客席の火鉢の中に唐辛子を燻べて邪魔をするという話です。朗々と聞かせる語りに力が入ってくる高潮の最中に不本意にもくしゃみが止まらなくなり、巨大なくしゃみの中で聴衆に詫びを入れる講談師の姿がいかにも滑稽です。匂いが直接語られるわけではありませんが、思わず話に聞き入っている私も鼻がむず痒くなってくるという臨場感があります。
 仙台藩で起こった伊達騒動を話題のきっかけに、上方で「高尾」江戸落語では「反魂香」という演目があります。鳥取藩士の島田十三郎と吉原・三浦屋の高尾太夫は、互いを誓った仲となりますが、そのことが仙台藩主伊達綱宗の怒りを買って高尾は斬り殺されてしまいます。出家して高尾の霊を慰める十三郎の手元には、高尾から送られた特別の香が残されました。この香は、焚くと亡き人の魂が呼び戻され再会を果たすことができるという伝説の反魂香でした。この反魂香の出典は、唐の詩人白楽天の「李夫人詩」にあります。漢の武帝は、最愛の李夫人を亡くした失意の中で、導士に命じて霊薬を整えさせます。この香を金の炉に焚くと煙の中に亡き夫人が現れたと伝えられてきました。その反魂香の威力を知った長屋住まいの喜六は、大きな勘違いから越中富山の反魂丹を買い求め、挙げ句の果てにはその漢方薬全部を火に投じて長屋中が大騒ぎ......となりました。伊達騒動や吉原そして白楽天や武帝など話題の広がりの豊かさと、庶民的な長屋の生活風景までを笑いの渦でまとめてしまう落語という話芸のダイナミズムが、すべて凝縮されたような世界観に感嘆してしまいます。
 人情話の傑作として知られる「たち切れ線香」という演目があります。船場のとある大店では、若旦那が花街に通い詰め、ついに商いの金にまで手をつけてしまうという大問題が発生。親族会議の結果、大番頭の判断で、百日の間土蔵に閉じ込めて問題の若旦那の性根を叩き直すという事態となりました。毎日のように花街の座敷に足繁く通っていた若旦那がプツリと音信不通になり、その来訪を待ち焦がれる芸妓小糸は毎日手紙を書き続けました。番頭の手元で留め置かれた手紙が八十通を数えるところでパタッと打ち止めとなり、花街の恋もついに冷めたかと思われました。百日の行を勤め上げた若旦那が番頭の目を盗んで再び茶屋に出かけたところ、小糸は恋の病を患って世を去り白木の位牌になっておりました。そこには若旦那が小糸のためにと特別に誂えた真新しい三味線が供えてあり、小糸はそれを若旦那のために弾いてみたいと最後まで願っていたとか。若旦那はお線香に火を着け小糸の霊前にお供えしひたすら悔やみ詫び続けます。すると、なんと香りの広がりとともにその三味線の糸が響きだし、地唄の「雪」がどこからともなく聞こえてきます。小糸の魂が一時でも帰ってきてくれたのです。その場のみんなが小糸っと心を一つに息を呑んでいると、プツっと地唄は止まってしまいました。なんとお線香が燃え尽きてしまっていたのです。花街では、支払いの計算の根拠となる時間を数えるために、お線香の燃える時間と本数を単位としたと言います。花街では、お線香の燃えている間だけが客と芸妓に許された時間だったのです。この演目は、笑いというより人情ものとして話に引き込まれる話芸の骨頂があります。またお線香の香りの広がりの中で亡き人に再会できるという最後の件は、前述の反魂香の伝説に基づいているのです。船場の大店の主人一族と大番頭との位置関係の表現など、多様な意味で名作だと言われています。
 他にも肥担桶とともに籠に揺られる医者の滑稽な姿や、味噌や酒そして肴の香りなど、とにかく生活の中にあるあらゆる香りや匂いが多くの演目の中で語られています。

 さて、古典の中に登場する話題として嗅覚と笑いに関して最も秀逸と思われるものは、今昔物語集(巻30・1)にある平定文の説話です。この主人公は、平中というニックネームで都に知られていました。容姿端麗、身のこなしや会話も洗練されていて、好男子として右に出るものもなく、世の女性たちの意識を一身に集めていたというプレイボーイでした。その平中が、侍従という一人の女性に想い焦がれてしまったのですが、この女性がなんともクールビューティで、平中を全く相手にしてくれません。そこで平中は多様な工夫を凝らして彼女に迫るのですが全く想いを遂げられず、ついには彼女を諦めるための挑戦に出ます。これで自分の片想いの恋も冷めきってしまうであろうと願って決死の行動を起こした時、なんとそこには貴重な香薬を駆使して素晴らしい香りとともに平中を圧倒してしまう仕掛けが凝らされていたのでした。と、この説話は私がここで事細かに解説をするよりも、ぜひご関心のある方には「今昔物語集 巻30第1話」を紐解いていただきたくご紹介をしておきます。千年の昔に貴族社会の教養文化というものがどのようなことであったものか、他国から舶載されてくる貴重な香薬を使いこなす様子が興味深く語られています。
 五感の一つである嗅覚は、いつの時代においても私たちの心の襞を震わせる一つの楽器のようなものでした。デジタル化の波が圧倒的な力と共に私たちの日常生活を席巻する文明化の世に、私たちにとって、笑いにこそ嗅覚の力を体感することが、朗らかで人間的な潤いになるのではないでしょうか。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。