「花壇に植えているサボテンの花がね。今夜から明日の朝にかけて咲くそうですよ」
夏の初めに勤めている病院の院長先生にそう教えてもらって玄関横の花壇を見に行ったのは午後8時頃だった。1株のサボテンの先頭部近くにある花芯の部分は既に膨らみ始めている。毎日の観察を続けた先生の成果だ。サボテン科の植物は数年に一度しか花をつけず開花は一晩だけでそれが今夜らしい。私は夜勤なので朝まで病院で勤務する。神秘的な開花の場面に立ち会える恩恵が与えられた。
30分毎に確認したが刻一刻、というよりサボテンの花は急激に開いていく。透き通るような真っ白で長い花弁は、まるで夜空に浮かぶ少女のポニーテールのようだ。周囲に漂う香りは、例えるなら切り立ての胡瓜のようで青く鮮烈な香りは夏を感じる。更に鼻を近づけてみると瑞々しくて強い芳香が私の鼻腔から心にまで抜けていく。何だろう。どこか懐かしくて力強いこの感じ方は。嗅ぐうちに分かった。これは今を生きている強い生命力の匂いだ。一晩だけ開花できる機会を与えられたサボテンの万感を込めたワン・ナイト・ステージ。長い数年間を耐えることができたのは今夜、華やかに咲くためだ。ステージ上からはたった一人の観客の私に青くて逞しい香りが届き続ける。凜とした潔い立ち姿とその芳醇な香りに私は心の中で拍手を送った。
草木の小さな生育は目にする人の心に必ず意味を与える。この花壇の壁を一つ隔てた病棟では入院生活を送っている患者さんがおられる。退院される患者さんに「おめでとうございます」と言葉をかけることもあるが儚くも無言のお見送りしなければならない方もいる。一晩の主人公サボテンが見せてくれた開花の模様は人の生き様を投影していた。
サボテンの花は陽が昇る朝になってようやく舞台を終えた。俯いて、萎んで、小さくなった。だけど僅かに放つ青い残り香が、精一杯のカーテンコールだったのだと信じたい。