入賞作品の発表

第36回 「香・大賞」

金賞
『 柚子風呂 』
秋重 南海男(あきしげ なみお)
  • 77歳
  • 無職
  • 福岡県

 家事に助けられて、毎日を送っている。炊事、洗濯、掃除がもしなかったらと思うと、ぞっとする。強がりで言っているのではない。76歳の1人暮らしの男の本音なのだ。3年前、妻に先立たれた時「ちゃんと生きてね、だらしなくしちゃだめよ」という妻の言葉に、途方に暮れながらも、そうしようと思った。「ちゃんと生きること」がなにを意味するかは今でも分からないが、家事に追われて日々を送るうちに、なんとなくこれでいいのだと思うようになった。
 特別なことは何もない、自分で食事を用意する。2度から3度にはなったが、朝食、夕食は手を抜かず、それなりの献立になっていると自負している。人と比較する必要はないのだ。洗濯も掃除も曜日を決めてやっている。洗濯は好きな方だが、この頃は天気を見てやるようにもなった。買い物にも冷蔵庫の中を確認して行くようになった。偏りのないメニューも考えるようになった。
 自慢できるようなことは何一つない、この当たり前の毎日を受け入れ、こころ穏やかに暮らす。
 八百屋できれいな柚子を見つけた。1個60円、5個買った。
 今日は風呂を掃除する日だ。特に念入りに排水溝まで洗った。まだ陽の残るうちから、新しいお湯を張り、柚子を浮かべた。これだけでも何か心が躍る。お湯の中で柚子を泳がせると、柚子の踊りに合せて特有の香気がたつ。香りが肌にやさしく纏わりつく。こんなささいな事で今日の1日が足りたような気がした。
 今年はコロナ、コロナで緊張と不安の中に日々が流れ、マスクのせいばかりではない息苦しさに身を潜めた。柚子風呂につかりながら、世間がどうあろうとも、世界がどうあろうとも「俺もちゃんと生きているぞ」ここちよい湯の中で手足を伸ばした。