入賞作品の発表

第30回 「香・大賞」

金賞
『 愛車の香り 』
しげ
  • 36歳
  • 会社員
  • 愛知県

 社会人になってすぐに車を買った。ディーラーでオプションパーツを付け、内装にもこだわった自慢の愛車だ。
 休日には必ず洗車をし、丁寧にワックスを掛けた。ピカピカになった車に、後に妻となる彼女を乗せていろんなところにドライブに行った。でもどんなに遠出をしても車内は飲食禁止を貫いた。車内に匂いが残るのが嫌だったのだ。
 3年後、結婚してすぐに妻から妊娠したと聞かされた。嬉しかったが、戸惑いもあった。お腹が大きくなるにつれ、だんだん母親らしくなっていく妻に対し、自分は親になるという実感が湧かずにいた。相変わらず休日に洗車をし、カーショップをめぐるのが楽しみだった。
 ある日妻から、チャイルドシートを見に行きたいと言われた。機能や金額を見比べ、カラーも車にあうように選んで購入したが、実際に装着してみると、やはり違和感がある。自分の今までのこだわりが台無しになったように感じ、こっそりため息をついた。
 妻は予定日より10日ほど早く、元気な男の子を出産した。退院の日、初めてチャイルドシートに息子を乗せた。乗りなれた車、走りなれた道のはずなのに、ハンドルを握る手に汗がにじみ、ズボンで何度も手を拭った。子どもを乗せているというだけでこんなにも緊張するとは、自分でも驚きだった。それは父親の自覚が芽生えた瞬間であり、この子を守らねばという責任感を強く、重く感じた瞬間でもあった。
 翌日、仕事に行くために車に乗ると、ふわっと甘いミルクのような香りがした。振り返った後部座席にはチャイルドシート。昨日乗せた息子の残した香りに、自然と笑顔がこぼれた。責任だなんだと深く考えず、精一杯この子を愛し、成長を見守っていこうと思ったら、肩の力がすっと抜けた。
 仕事帰りにカーショップへ寄って『BABY IN CAR』のステッカーを買おうと思いながら、勢いよく車のエンジンをかけた。