祖父の家に行く日は、鞄は大きい方がいい。帰り際には、決まってA4ファイルに挟まれたお土産を渡されるからだ。その正体は、新聞の切り抜きである。数ヶ月の間に溜まった新聞の所々には、赤や青のペンで勢いのある丸印がつけられている。「ここを読みなさい」のメッセージだ。いくつかの記事はクリップでまとめられ、一番上には折り込み広告を裏紙にして、私の名前が書かれている。新聞購読は随分昔に電子版に切り替えた。新聞紙特有のインクの匂いと、仄かな線香の香りのブレンドはここでしか嗅ぐことのない優しい香りだ。
祖父から渡される記事の内容は私の成長と共に、段々と変化していく。スマホを持ち始めた頃には「SNSに潜む危険性について」成人した頃には「正しいお酒の飲み方について」、大学3年生の頃には就職活動を意識したものが多かった気がする。私は心から祖父を尊敬しているし、活字を読むのも苦にならないタイプの人間だ。これまで頂戴した記事は勿論全て目を通した。が、一度だけ読み損ったことをここで自白する。正確には読む時機を逃してしまったのだ。
私は今年会社を退職した。前向きな決断である。同時に家を引っ越すことになり、荷造りをしていたところ、3ヶ月前にもらった新聞が未読のまま発見された。後で読もうと思ってすっかり忘れてしまっていたのだ。片付けを中断し、一つずつ捲ってみると、それらは全て私が勤めていた会社に関する記事だった。線香の香りはもうすっかり消えている。インクの匂いだけが鼻を刺激し、涙が頬を伝った。虫眼鏡で記事を追う祖父が面影に立ち、何だかとても申し訳ない気持ちになったのだ。
今私は少し遠くに住んでいる。暫く会えない間に、かなりの量の新聞が溜まっているのではないだろうか。祖父の愛情が籠ったあの香りにまた会いたい。