入賞作品の発表

第31回 「香・大賞」

銅賞
『 薔薇(ばら)の名札 』
おおくま のりこ
  • 31歳
  • 主婦
  • 埼玉県

 芳名、という言葉がある。うつくしい日本語だと思う。結婚式の招待状では、芳名の「芳」に線を引き、自らその香りをうち消して出欠の意思をあらわす。私の香りは秘めて、あなたの香りをひき立てます、という心憎い意思表示のようにも思える。
 小学生の頃、ほのかに薔薇の香りがする、うすももの薬玉(くすだま)のつまった小瓶をあなたがくれた。薔薇園のお土産で、おそろいだった。小瓶には細いキーホルダーがついていて、私たちはそれを、まあたらしい名札のピンにつけた。ささいなことに笑いあって胸の名札が揺れるたび、小瓶にあいたちいさな孔(あな)から、ほわり、とやさしい薔薇の香りがした。「ゆり」や「かおり」といった華やかな名前のにぎわう教室で、あなたの名前は、しん、とつめたく冴えて響いた。私の堅い「のりこ」という名前にも、華やいだ気配はなかった。だから、名札につけた薔薇の薬玉が、ふたりの名前にささやかな華を添えてくれる気がしたのだ。薔薇はそのあでやかな面立ちに反して、花びらのうちにこもるように、しとやかに香る。周囲にそれとわかる匂い立つような香りより、ふたりにしかわからないその秘めたる香りが、私たちの絆をひそかに、強くしていた。あなたは、はじめての親友だった。愛ある呼びすてで互いの名を呼び交わし、揺れては香るほのかな薔薇の気配に酔いながら、私たちの仲は永遠につづくと思っていた。
 しかしほどなく、私は東京の中学を受験することになり、机のひきだしに仕舞いこまれた薔薇の薬玉は、いつしかそこを棺とばかりに、その香りをゆっくりと眠らせていった。
 ボールペンで「芳」を消す。鼻先をかすめた思い出の香りがふっとかき消え、素っ気ない「名」だけが残った。あの薔薇の香りははやとおくなってしまったけれど、笑って胸を弾ませるたびに香っていたあなたの名前に、まあたらしい名字が加わって、私は今、しずかに胸を弾ませています。おめでとう、ゆき。