入賞作品の発表

第41回 「香・大賞」

佳作
『 においで遊んだ散歩道 』
井谷 元樹(いたに もとき)
  • 39歳
  • 教員
  • 和歌山県

 日が落ちかけた夕方。民家が並ぶ、車が入ってこられないような細い道を、祖母と2人でよく歩いた。見通しが悪く、曲がり角の先には何があるかわからない。どこまでも続く迷路のようだった。開け放った民家の窓から、あたたかな湯気と、おいしそうなにおいが漂ってきた。夕飯前ということもあり、空腹だった私の鼻は、いつも敏感に食べ物のにおいを嗅ぎ取った。しかし、幼かった私は、いったい何のにおいなのか分からないことが多かった。カレーのにおいだけはすぐに分かったが、それ以外は全く自信を持てなかった。
「ばあちゃん、お腹空いたわ。このにおい、ええにおいやなあ。なんやろ?」
「大根をしょうゆと砂糖で煮とるんや」
「ここは天ぷらやなあ。昨日サツマイモ、ようさん取れたて言うてたわ」
「鯖焼いとるなあ。安かったんやろか」
 祖母は口数が多い方ではなかったが、聞いたことはいつも優しく教えてくれた。
「そうや、冷蔵庫に入れとるあの茄子、使ってしまわんと」
「明日はじゃがいもの芽とらな」
 途中から独り言に変わっていくのはよくあることだった。共働きで忙しい両親に代わり、毎日ご飯を作ってくれていたのが祖母だった。八人家族の食事の準備、畑仕事に掃除に買い物。散歩中も家のことを考えずにはいられないようだった。
 祖母とにおいの当てっこをしながら散歩するのが、私のお気に入りの時間だった。今思えば、祖母はにおいだけで判断していたわけではなかっただろうし、いつも当たっていたとも限らない。それでも当時の私には、祖母がとてもすごいことをしているように思えた。
 あれから30年。家庭を持ち、自分で料理をすることが増えた。祖母に食べてもらうことは、ついぞできなかったが。
 夕暮れ時の散歩中にいいにおいがしてくると、今でも祖母に聞いてみたくなる。
「ばあちゃん、何のにおいやろ?」
 今なら、いい勝負ができるかもしれない。