入賞作品の発表

第41回 「香・大賞」

佳作
『 見えないごちそう 』
雨野 秀(あめの しゅう)
  • 東京都

 「仏さまは香りを召し上がるのですよ」
 私にそう教えてくれたのは、比叡山のお坊様だった。雪が降った、凍てつく冬の払暁。鼻を刺すような冷たい外気をしり目に、根本中堂の前には線香の火がゆらめき、どこか丸く穏やかな空気があった。

 我が家にやってきたマルは、元保護犬とは思えないほどに食いしん坊でグルメだった。中でもバターがしみ込んだパンのにおいには敏感で、トースターでパンを焼き始めると、目をキラキラさせてトースターの前に座っていた。「散歩にいくよ」と声をかけても、テコでもその場を離れなかった。我が家にやってきてからはパンもバターもあげてはいなかったが、何年経っても忘れられないほどの大好物だったらしい。
 比叡山に行ったのは、マルを見送ってすぐのことだった。家に帰って線香をあげた時、「あの子はこの香りを食べるのか」と思うと、何かが違う気がした。
 15歳になったマルは、急にごはんも水も受け付けなくなった。それでも生きながらえて欲しかった私は強制給餌の道を選んだが、点滴で水分補給し、フードを注射器で口元に流し込む日々は、楽しい食事の時間とはかけ離れていた。あの子が大好きだったご飯の時間を、私は結果として苦しいものに変えてしまった気がする。「ご飯が楽しかった」という思い出を、苦痛で塗りつぶして送り出してしまった。そんなことが頭を過るたびに、喉の奥が苦くなる。

 だからこそ私は、バターをたっぷり塗ったパンを仏前に供えることにした。小麦粉が焼けた香ばしさと、塩分と油分が絡み合ったバターの芳醇な香り。その香りが、湯気と共に立ち昇る。その香りを食べたマルは、もしかしたら食事の楽しさを思い出しているかもしれない。私の目を盗んでパンを食べる、背徳的な楽しさを満喫しているかもしれない。
 香りも想いも目には見えない。しかしだからこそ、目に見えない、遠く離れたあの子のところまで届くのではないだろうか。そう信じるからこそ―もしパンやバターの香りの線香があれば、私は迷わずにそれを焚くだろう。