入賞作品の発表

第31回 「香・大賞」

銀賞
『 今夜はカレー 』
中田 千秋(なかた ちあき)
  • 50歳
  • 会社員
  • 鹿児島県

 金曜の夜の凍てつく中を、突き抜けるようにバイクを走らせて帰宅する。シールドを上げると、明りの灯ったあちこちの家から漂ってくる夕餉(ゆうげ)の匂い。温かい気持ちになるのはなぜだろう。そう思いながら我が家の匂いを嗅ぐ。ああ、今夜はカレーだ。兄が帰ってきているのだ。
 兄は知的障害者で現在福祉授産施設に入居しており、月に2回、我が家に帰ってくる。母は必ずカレーを作って兄を迎える。兄の好物だからだ。随分前に父が他界し、しばらくは兄も自宅から福祉施設に通っていたのだが、母も高齢となり、身体が思うように動かなくなってきた。兄を施設に入居させたのは苦渋の選択だったろう。私でさえ、兄を見捨てたような、後ろめたい気分になった。施設で規則正しい生活をして、社会参加をすることが本人のためになる、今ではそう思えるのだが。
 兄がいない生活にすっかり慣れ、母は益々歳を取り、すっかり小さなお婆ちゃんになってしまった。家事をこなすのを嫌がるようになり、私と妹で分担して家事をこなすようになった。幸か不幸か、二人とも結婚もせず、ゆくゆくは母を見送り、そして兄を見送り、自分達もこの世を去るだろう。私達は消えゆく家族だ。しかし有史以来、幾億の家族がそうして消えていっただろう。どの家族にも夕餉の時間があり、温かな夕餉の匂いがそこにあった。そう思うと鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。
 母が作るカレーの匂いは、私たち家族がささやかにお互いを支えあっている証しだ。そこには母の愛情と、家族団欒の歴史がある。あとどの位一緒にカレーを味わうことができるかは分からない。我が家のカレーの匂いがこの世から消えても、人の世がある限り、家族団欒の夕餉の匂いは無くならない。きっとそれは誰かを支え、温かい気持ちにさせてくれるだろう。そう思うと、心に小さな明かりが灯る。さあ、温かいうちにカレーを頂こう。