入賞作品の発表

第40回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 香りの力 』
条遠(じょうえん) まゆみ
  • 65歳
  • 埼玉県

 子どものころから何度も不思議に思うことがあった。麦香煎(むぎこうせん)の香りである。滅多に食べないものだったが、その香りを嗅ぐたびに身悶えするほど懐かしく、とてもおいしいものを予感してドキドキした。しかし実際に食べてみると、思ったほどにはおいしくなかった。
 麦香煎とは、大麦を炒って粉にしたもので「はったい粉」とか「麦こがし」とも呼ばれる。のように熱湯で練って食べる。
 私の実家は和菓子屋だった。両親が別棟の作業場で大福餅や饅頭などの庶民的な和菓子を作っていて、私の暮らしは幼いころからおいしそうな匂いにあふれていた。
 どら焼きの皮の焦げる匂い。父が大釜で練るあんこの濃厚な匂い。鍋の中で溶けていく黒糖の香り。塩漬けの桜や柏の葉の奥深い香り。みんな好きな匂いだった。
 しかし、私を強烈に懐かしく、じっとしていられないような気持ちにさせるのは、ほとんどなじみのない麦香煎の香りなのだ。
 私は自分の思っていることをあまり口に出さない子どもだった。だから謎が解けたのは、結婚前に短いあいだ実家で暮らしていた20代半ばのことである。
 ある日、作業場のドアを開けると香ばしい香りに包まれた。母が紙袋を手にしている。
「あ、この匂い……」
「麦香煎だよ」
「どうしてこんなに懐かしいんだろう」
母は驚いた。
「覚えているのかね。お前が小さいとき、これをお湯で練ったのを離乳食にしてたんだに」
そうだったのか。
 おそらく乳児の私は巣の中のひな鳥が餌を求めるように懸命に、一心不乱に麦香煎を欲していたのだろう。そして、味ではなく香りによって、記憶には残っていないそのときの気持ちがよみがえっていたのだ。
 香りには直(じか)に心に働きかけ、気持ちを動かす力があると知った体験である。