入賞作品の発表

第40回 「香・大賞」

佳作
『 愛しき木の香 』
関西 多久美(かんさい たくみ)
  • 77歳
  • 会社役員
  • 岐阜県

 32年前、私は2人の女児を抱える、シングルマザーだった。実家を改築して11席の小さな食堂を営んでいた。屋号は『十五屋』、旬の野菜をたっぷり使った定食を出していた。
 開店して2年目頃から毎晩のように夕食を食べに通って来る男性客がいた。京都出身の家具職人だった。
 彼がやって来ると、店内に“パーッ”と木の香りが広がった。華奢な体格の割には食欲が旺盛で、出した料理はきまって完食した。
 ある日、食後のコーヒーを飲みながら「深草の少将は小野小町に“百夜通い”を約束したが満願の前日“九十九日目”で亡くなったんですよ」と独り言のように私に語りかけた。プロポーズだった。私が子連れという理由から彼の親族から猛反対をされたが、反対をおしきって結婚した。店には愛着が有ったけれど、閉めて彼の仕事を手伝う事に決めた。
 工房の入り口の引き戸は、長さが2.5メートルもあり重たくて渾身の力をふりしぼらないと開かない。やっとの思いで中に入ると“空気砲”に撃たれたように全身が木の香りに包まれる。バラのような華やかな香りは「欅」(けやき)クセの強い香りは「楢」(なら)依頼主の希望する樹種でオーダー家具を作るので、日によって工房内に流れる匂いは異なっていた。工房の経営状態は厳しかったが、木の香りに鎮静効果が有るみたいで、自暴自棄にならずにすんだ。
 夫は66歳の春、ステージ4の食道癌と宣告された。手術後「㾱用症候群」に陥り、みるみるうちに痩せ衰えていった。9ヵ月後の11月30日、枯れ木のように軽くなって、私の腕の中で静かに息を引き取った。抱きしめた夫は人工的な薬剤の臭いがした。
 今年は11月初旬に薪ストーブを焚き始めた。煙の匂いは夫と共に歩んだ26年間の愛おしい日々を思い出させてくれる。今年は七回忌だ。揺らめく炎を見つめながらつぶやいた。
 「春樹さんお帰りなさい……」と。