入賞作品の発表

第41回 「香・大賞」

銅賞
『 タネ吉と天の川(ティンガーラ) 』
不破 裕(ふわ ゆう)
  • 56歳
  • 会社員
  • 北海道

 もう20年近く前になる。同族会社の保証人になっていた私はその会社の倒産を受けて自己破産し、沖縄県八重山諸島の竹富島に移住した。
 水牛車の観光ガイドの職にありつけたのは、社会人になりたての頃から趣味で弾いていた三線のおかげだった。
 私が再就職した水牛車観光の会社には十数頭の水牛がいた。そのうち「タネ吉」と言う名のオスの水牛の面倒を任された。気性が荒く他の水牛とはいつもいがみ合っていたが、人間には懐っこいヤツだった。
 日中牛車にお客を乗せて働いた水牛たちは、夜には、島のあちこちに点在する空き地に繋ぎ、そこで青草を食べさせている。世話担当の水牛を持つ私たち職員は、観光船が動き出して客が島に渡ってくる前に、ご出勤さながらに空き地へ彼らを迎えに行く。
 持病にまつわる服薬の都合もあり、私がタネ吉を迎えに行くのは、日の出の気配すらない朝まだきだった。迎えに行った私を首だけ起こし見遣るだけで、立ち上がろうとすらしない横着なタネ吉の腹を枕に、よく満天の星空を眺めた。南国の星々が天の川を境にひしめき合うのを見ながら、湿気を帯びた青草の匂いを嗅いだ。数年来の孤独感が和らぐ、そんな匂いだった。
 40歳を迎えた年、私はこの人口350人の島を出て、190万以上の人間を擁する札幌に戻った。今は革靴を履き、スーツを着込み、ネクタイを締め、雑踏のなか朝から晩までアスファルトやコンクリートの上を歩いている。働いているあいだ無意識に感覚を閉ざしているからなのか、一日の終わりになって記憶を巻き戻せば、日々は無味無香の連続だと言っていい。それでも初夏の頃、接待終わりの帰り道に夜の公園を横切っていると、水分を含んだ夜気に乗って濃い緑の匂いが鼻腔をくすぐってくる。後頭部に残るタネ吉の腹の感触と、夜空を滔々と流れる天の川が記憶の水面に浮いてくる。そんな夜は雑踏を心地よく感じ、また繁華街に戻ろうか、と思ったりするのである。