入賞作品の発表

第28回 「香・大賞」

金賞
『 アカシア並木 』
中村 隆宏
  • 73歳
  • 無職
  • 広島県

 「ちょっと……胸の傷、隠れる……?」
と妻はお気にいりのセーターを着ながら、大きな声で呼ぶ。妻の好みは、若い時から胸元が大きく覗くセーターが多く、それが良く似合った。しかし、そのセーターは20センチを超える太く長い胸元の傷跡をつつみ隠してくれない。
「やっぱりダメね……」
鏡の中の目線が私を見て笑った。手術前の愛用セーター類はお蔵入りになった。
 4月29日、早熟アカシアは白い小球状の花をブドウのふさのように付け、その周辺に淡く優しい香りを漂わせていた。
 二人で歩くアカシア並木、しばらくすると汗がにじんだ。彼女はスカーフを外して私の方へ差し出し、持ってくれと目で合図する。
 手にしたスカーフはかすかに湿気をおびている。私はスカーフを自分の首に巻いてみた。その時、アカシアの淡い香りが匂ってきた。
 「わたし、こんなに長生きするとは思ってもみなかった……」
妻がひとりごとのように呟いた。妻が心臓手術をしたのは24年前、今年、72歳である。
 手術前の妻は、ゆるやかな坂の上にある自宅までの歩行は300メートルが限界、そこで休憩を入れないと先へ進めない状態だった。つとめて明るく振る舞う妻も小高い場所の自宅に向かう表情は、苦痛で顔が歪んでいた。しかし、今はドクターに恵まれたこと、妻自身の不断の努力が天の配剤に浴して散策を楽しめるまでになった。
 5月5日、曲がりくねった路上は、クリーム色と化したアカシアの花びらで覆われ、吹きだまりに足を踏み入れると、サクサクと乾いた音が柔らかく足もとで鳴る。
 「海外旅行に行ってもいい?」
妻が事も無げに言う。
「何処へ?」
「ヨーロッパに……」
 これには驚いた。妻は常々『飛行機には絶対、乗らない』と宣言していた。彼女の頑張りがここまで気持ちの変化をもたらした。
 妻の足が動き、自分の眼で見られる時を逃すことはない。
 旅行の準備をする妻の表情は、次第に大きくなる鞄のように何とも楽しそうだ。