私は外国航路の航海士だった。休暇になるまで9ヵ月は家に帰れない。娘が生まれてから、顔は無理でもせめて声くらいは覚えてもらいたくて、毎日のように電話した。
「満月だね。お月様はうんと遠くにいるから同じお月様見られるんだよ。一緒に見ようね」
と話しかけると、娘の鼻息の後ろで、
「お父さんもあの真ん丸お月様見てるって。東京は金木犀がいい匂いよね」
と妻が言った。
その夜は、雨が止んで視界良好、静かな瀬戸内海の航海当直だった。操舵室の中は見張りのために、暗闇にしている。島々に満月の光が降り注いでいる。点在する家の灯が橙色に煌めき、その上を灯台の光が旋回していく。
二人一組で入直する相方の操舵手は、父と同じ年かさだった。任侠映画と演歌、酒と女の同じ話を、何度も何度も繰り返し話した。一緒に仕事するのは楽しくない人だった。
彼は気温を測るため、歌いながらドアを開け外に出た。空調された操舵室の中に湿った風が、演歌のこぶしと共に花の香りを運んできた。レーダーで周囲の確認をして、月明かりに照らされた屋外に出てみた。高松の街の明かりが、その手前の島の稜線をはっきりと縁取っていた。深呼吸をした。金木犀だ。家では妻と娘が同じ満月の光の下で、同じ香りに包まれている。彼に話し掛けた。
「海の上なのに金木犀が匂ってますね」
「高松のペトリコール。雨の匂いだ。金木犀の匂いは雨に溶けるからね。アラスカは針葉樹と朽ちた苔の匂い、ハワイは甘い匂い、東京や大阪は酸味のあるガスに埃の匂い。土地ごとに匂いが違う。せっかく船乗りになったんだから、世界中の色々な違いを楽しんだらええですよ。船乗りの人生を香り豊かなものにせんともったいない」
と、十数年間乗り合わせて、初めて聞く話に僕は驚いた。
今年は酷暑で時期の遅い開花だ。あの夜のように海も香っているだろうか。隣にはお茶を飲みながら、卒論の準備をする娘がいる。