入賞作品の発表

第35回 「香・大賞」

銅賞
『 楓のおなか 』
渡辺 蛍楓(わたなべ けいか)
  • 36歳
  • 契約社員
  • 千葉県

 なかなか子供を授からず、これはワンコを飼えという神様の思し召しだなと解釈し、ミニチュアシュナウザーの子犬を迎えた。体格も逞しく、真っ黒い毛も豊かで、その真っ黒い顔から覗くキラキラした目がなんとも健やかな元気なメスの犬で、その全身の黒さから「しのびのもの」を彷彿とさせるため、某時代劇の上様に仕えていた女密偵になぞらえて、名前を楓と名付けた。
 楓とともに暮らし始めると、想像以上に世話が大変で毎日があっという間に過ぎていった。しかし強制的な散歩のおかげなのか、毎日彼女の瞳のように健やかに過ごした結果、子供を妊娠、出産することができた。
 夢に見た幸せな毎日が繰り広げられると思いきや、今度は育児の大変さに度肝を抜かれた。私の娘は泣いてばかりの子で、その上まったく眠らない子であった。何をやっても泣き止まない子におろおろとし、自分の睡眠時間の確保などそっちのけで赤ん坊の相手をする毎日。かわいいという気持ちも枯渇し出し、自分の感情をコントロールすることもできず、虐待する親の気持ちがよくわかるなぁ、などと危険な心持ちになっていたところ、そんな私をじっと見つめる黒い目が。楓がソファの上からじっと私を見つめていた。こちらにお腹を見せて、目はじっと私を見据えている。その時私には「私のお腹でお泣きなさい」という楓からのメッセージが聞こえた。ギャーギャー泣きわめく娘の声を聞きながら、楓のお腹に顔を埋めると、優しさという成分をすべてこのお腹に込めましたというような、言葉には表せない、でも決して忘れられない匂いがした。その匂いを思い切り吸い込みながら、私は楓の腹に顔を埋めてわんわん泣いた。その後も、育児で危ない一線を越えそうになる度、楓はお腹をこちらに向けて、じっと黒い目で「ここで泣きな」とお腹の優しい匂いで私を取り戻させてくれている。