一瞬の忘我だった。
午前6時半過ぎ。炊き上がってすぐのコシヒカリに酢を回しかけて混ぜ込んだあと、かぶせた濡れ布巾越しに燻る白い湯気が鼻を掠めた途端、私は日本にいた。畦道だった。田植えを終えたばかりの季節で、水田は晴れた空を反射しながら、か細いながらも力強い緑色の苗たちをその内側で遊ばせていた。苗はこれから大きく育ち、やがて金色に輝く頃に刈り入れられる。私は布巾に顔を近づけて思いきり息を吸い込んだ。イタリアの、妻の実家の台所で、私が初めて商品として寿司を作った朝だった。
結婚して妻の国へ移り住んだ私は、されどコロナ禍で職が見つからず、それでも生きてゆくために義父母が営む魚屋で寿司を売ることにした。不安だった。
「買ってもらえるだろうか。不味くて苦情が入ったりしないだろうか」
私は料理人でもなんでもなかった。本来なら何年も必要となる板前修行のプロセスを1日で飛び越えるのだ。おこがましさのせいで疑心暗鬼も止まらなかった。
「そもそも、素人なのにただ日本人というだけで寿司を作ること自体が恥ずかしくないか」
そんな負の感情を、その酢飯の香りはやさしく静めてくれたのだった。
私は職人ではない。けれど、ホンモノだ。日本という場所で育った事実に嘘はなく、私の根幹は分かち難く日本の風土と結びついている。その結合は自分が寿司を作る上で唯一負い目のないもので、私は巻きすに米を広げつつ、その、自身の内に確かに存在する日本を信頼してみようと思った。
その朝から時間が経ち、私はまだ寿司を作っている。毎日酢飯の香りを吸い込んで、ホンモノの日本を店に並べている。