入賞作品の発表

第26回 「香・大賞」

銅賞
『 紫煙の中に見えた人生 』
出雲 遙
  • 46歳
  • 公務員

 もう大昔の話だ。取調室での一対一の攻防戦。被疑者は前科九犯の空き巣狙いの常習犯。私は当時、駆け出し刑事で取調官を任されたが自供を得られず、毎晩、自供しない彼と対峙する夢を見てはうなされる日を送っていた。そんな焦りの中、彼が所望した煙草に火をつけてやると、ポカリ、ポカリと見事に真ン丸い煙の輪を幾つも作る。思わず、上手ですねと感心すると、彼がぽつんとつぶやいた。
「娘が……これ、大好きでした」
 聞くと彼には離婚した妻との間に、一人娘がいるという。娘が幼い頃、父親が作る煙の輪を見るのが大好きで
「パパ、輪っか、輪っか」
とせがまれていたとのことだった。
 そのことを聞かされた時、私は一瞬の間を置いて、本当に自然と、こう口にしていた。
「はき出した紫煙の輪っか、何だか、あなたの人生の匂いがしますね」
 どんな被疑者も“落ちる”瞬間というのは必ず居ずまいを正す。そして自供する。また刑事魂(でかだましい)を持っている刑事なら、被疑者に罪を認めさせる以上に真人間(まにんげん)になってほしいと願う。だからあの取調べは、そのタイミングが思いがけず一致し、全面自供に至ったのだと今でも思っている。
 余罪も全て自供し、起訴されて拘置所に移送される日。彼は
「刑事さん、出てきても煙草はやめません。もっと綺麗な輪っか、作りますから」
 そう言って笑った。娘さんのことなのか、取調べの時に褒めたことなのか。尋ねるのは野暮と車に乗り込む彼を黙って見送った。真人間になれよ、と心で願いながら。
 取調べの可視化なども相俟(あいま)って、今は被疑者に煙草を与えることは便宜供与で禁止、また喫煙率の低下で取調室も全面禁煙である。
 だが、街中で紫煙を嗅ぐ機会のある時、ふとした拍子に彼のことを思い出す。今では母となっただろう娘さんと、お孫さんの前で、見事な輪っかを作ってくれていたらいいのにな、と願わずにいられない。