入賞作品の発表

第35回 「香・大賞」

金賞
『 香りのない世界 』
吉澤 丸子(よしざわ まろこ)
  • 69歳
  • 看護師
  • 鳥取県

 ある時期、私は香りのない世界にいた。
 それは中学2年の秋であった。台風の大雨もどこ吹く風と眠っていた早朝、激しい音と衝撃に一家は跳ね起きた。父が叫んでいた。
 「山津波だ。寺の裏がやられたぞ」
 台所の土間を見ると池から押し出された鯉が何匹も泳いでいた。鯉を助けると母は云い、鯉を捕えては私達が飲む水槽の中に入れて行った。鯉も人間も母には平等であった。
 私は弟と土間の水を汲んでは外に放り出したが水は一向に減らず、涙がこみあげてきたことが驚きであった。
 「私は弱い人間じゃない」
そう思いたがっていた私がいた。
 水が引き、夜中眠っていると縁の下から激しい呻き声が上がった。
 「鯉が泣いている」
 母は龕灯(がんどう)提灯に火をつけて縁の下に潜って行った。鯉は死にもの狂いで暴れて母の頬を何度も叩き、母の絶叫も凄じかった。格闘の末母が縁の下から大きな鯉を抱いて出てくると顔は泥で黒塗りされ、目玉だけが白くギロギロと動いていた。母は風呂のぬるま湯で泥を落し、また布団に潜った。魚臭いとは誰も思わなかった。そんなことが幾晩か続いた。
 米櫃(こめびつ)もひしゃげて泥の中に埋まっていた。父は丁寧に米を掬い出し、その米を洗って私達は食べた。泥臭いとは誰も思わなかった。寺中の畳が黴(かび)た。誰も黴臭いとは思わなかった。畳を上げ、床板を剥し手で泥の固まりを運び出した。泥の中から死んだ鯉が出てきた時、初めて私達は感情を揺すぶられた。しかしその鯉を臭いとは誰も思わなかった。
 春が来て、私は裏山の陽ざしの中でわらびを手折ってきて母に見せた。母はわらびの束にズボッと顔を埋めてから云った。
 「春の匂いがする」
 我が家に香りが戻ってきた瞬間であった。