入賞作品の発表

第21回 「香・大賞」

銀賞
『 八年目のイブ 』
柴田 千鶴子
  • 52歳
  • 会社員
  • 大阪府

 8年前のイブ、私は地下鉄心斎橋駅ホームの雑沓の中にいた。階上のデパ地下から漂ってくる様々な食料品の匂いの入り混じった、生暖かい空気がフワッと私を優しく包み込んでくれた。その途端、張りつめていた緊張の糸が緩みふいに涙がこぼれそうになった。
 2週間前、勤務先から東京で単身赴任中の夫の突然の失踪を告げられた。四方手をつくし探したが何の手掛りもつかめぬままに徒に日々が過ぎていった。そして追い討ちをかけるように発覚した夫の不正。解雇通告を受け急ぎ上京し、借上社宅の私物を整理しての帰路だった。慣れない東京で地図片手に諸手続きに奔走し、訳がわからないままに迷惑を掛けた関係各位に頭を下げて回った。2日間で私は精神的にも肉体的にも極限状態だった。家族の前から失踪という卑怯な方法でいなくなった夫に対する怒りと、真暗な荒海にいきなり放り出された様な不安を胸に帰阪した。新大阪で地下鉄に乗り替え、難波で下車するはずが、あの日何故一駅手前の心斎橋に降りたったのか、今でも思い起こすことが出来ない。でもきっと、疲れ果て傷ついた心身が、無意識のうちにあの懐しくて優しい匂いを求めたに違いない。
 あれから8年。母子家庭の多くがそうである様に、決して平坦な道程ではなかった。これでもか、これでもかと荒波が次から次へと押し寄せ、イブどころか家族の顔から笑顔が消え去ってしまった時期もあった。でも今年のイブは違う。不自由な思いをさせた娘二人が嫁ぎ、私に初孫という宝物をプレゼントしてくれた。娘夫婦と初孫と私4人で、イブの食事を心斎橋でする約束だ。あの日傷心の私を包み込んでくれた匂いは、今年は幸せな私達を又優しく包みこんでくれる事だろう。心斎橋駅に降りたったら、胸一杯あの匂いを吸いこんで、今の幸せをかみしめたいと思う。