入賞作品の発表

第21回 「香・大賞」

銅賞
『 モカの香り 』
秋月 りょう
  • 29歳
  • 図書館職員
  • 熊本県

 珈琲の香りは日常においてごくありふれた香りだが、私にとっては残酷な香りである。夭折した夫が、日曜の遅い朝陽の中で立てていたモカの香りを思い出す。カーテンから差し込む陽が、昼に近い時刻を示していた。料理は一切出来なかった夫が、珈琲だけはドリップ式にこだわって自ら淹れた。
 今は私が、在りし日の夫を真似て淹れている。真剣な眼差しで熱湯を注ぎ、豆の泡立ち具合を確かめながらそれだけに熱中している夫を見て、幸福なあの時間の中、私は半ば呆れながら彼を見守っていた。夫の嘘みたいに真剣な眼差しが何だか滑稽にも思えて、週末に繰り返されるその行事を面白がって楽しんでいたのだ。その記憶とモカの香りは分かち難く結び付いている。
 あれから1年。時間が過ぎるのは早いものだ。夫が死んだ原因を自分に求め、他人に求め、苦しみ抜いた1年だった。夫を忘れることはあり得ず、夫は常に私の一部である。
 一人暮らしの限られた空間に、モカの香りがゆっくりと染み透っていく。私は今一人である。外には都会の喧騒があった。二人分の珈琲を淹れ、夫の珈琲にはミルクだけを入れた。椅子代わりのベッドに座りながら足を組み、珈琲をすすった。数年前に撮った夫婦二人の写真を眺める。写真の中で、私は後ろから夫に抱きつき、彼の頬っぺたを無遠慮に引っ張って笑っていた。されるがままの夫……。
 心は静かだ。胸を抉る苦しみから目を逸らさず、その苦しみをじっと見据えてきた結果だった。ただ、深い哀しみが透き通った色合いの中に浮かんでいる。
 ねぇ、と夫の名を呼んでみる。手元の珈琲は夫の淹れたモカと酷似して、苦味と酸味が入り混じった味がした。
「少しは上達したかしら?」
 陽差しの中、立ち上るモカの香り越しに、満足げに目を細める夫の顔があった。