9年前に手術した乳がんが再発した。告知のショックを受けないように、再発後の段取りをシミュレーションして診察に臨んだが、いざ主治医の口からその言葉を聞いた途端、私の頭の中は文字通り真っ白になってしまった。シミュレーションしていたことを思い出そうとするが、力むばかりで思うようにいかない。しばらく奮闘していると、病院の無機質なグレーの壁に、突然ある記憶の映像がふんわりと浮かんだ。
それは、私が子どもに授乳をしていた20年以上も前の風景だった。子どもは乳児の身体に不釣合いな大きな鼻音を、くっくっと部屋全体に響かせている。ポンプのように全身が規則正しく動くのが腕に伝わってくる。一しきりすると空腹感がなくなったのか、子どもの身体がほっと緩んだため、私はつい子どもの目に向かって大きく笑いかける。それに気づいた子どもは乳首から口をぱっと離し、歯のない口を全開にして笑う。口の中の歯ぐきのすじや舌の表面に、白い乳が木漏れ日のようにキラキラと光っているのが見える。と同時に、濃く甘い蜂蜜のような、乳酸菌のような、血液を思わせる鉄分のような、それらが混ざりあったにおいが、子どもの暖かい息とともに思い切り吐き出される。そのにおいは私の喉と鼻の奥をいっぱいにし、眼球の裏側をじんわりと温める。
なぜこの光景が、においまでも伴って不意打ちのように出て来たのだろう? と私は不思議に思った。その理由はわからないまま、次の瞬間、お腹の底にぐっと力が入り、静かな安心感に包まれた。その後も、治療の過程で困難は続いたが、この感覚はふいに現れては心強い伴走者のように私を力づけた。
治療が一段落し、日常が回復すると、あの新鮮な感覚は姿を消してしまった。あれは一体何だったのだろう? 茫然自失の私に活を入れるために、知覚たちが甦り、時空を飛び越え、駆けつけて来たのだろうか。