入賞作品の発表

第41回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 香り水 』
奥野 正幸(おくの まさゆき)
  • 76歳
  • 東京都

 父は20歳で徴兵された。7年のあいだ華北華中を転戦し、命からがら生き残って母国へ帰って来た。「酒も煙草も軍隊で覚えたものだ」と威張るのが口癖、とんでもない大酒飲みに変身していたのだ。
 酒を飲み機嫌が悪いと父はよく暴れた。子供たちには手をあげなかったが、母がすっ飛ぶのを何度か見たことがある。朝方、目の上を腫らした母は、実家に逃げ帰ることもあった。しかし、しばらくすると何事もなかったように戻って来る。父は子供が戒めると、そっちの耳は砲弾の音でこわれ聞こえません、と言い、都合よく黙ってしまう。
 あるとき母に「よく我慢しているね」と言うと。「お父さん、お酒を飲まないと眠れないのよ」という。それでも毎日夜中に戦場の夢を見て大声を張り上げているのだと教えてくれた。
 父はこめかみに凹みがある。戦争で頭部貫通銃創を負ったのだ。幸い弾は頭骨に沿って回り外へ飛び出してくれた。九死に一生を得たのだ。しかし、この戦傷は30年たって再発した。まる1日の長い手術を経て、父は再び生還できた。この時から父の酒にはドクターストップがかかる。しかし幸いなことに、あの悲惨な夢を見ることは少なくなり、性格も戦争の前に戻って優しく朗らかになった。「こんなにおとなしい人だったのね」と母はしみじみと言った。今言うならば、戦争の強いトラウマのせいだったのだろう。
 その後夕食には水の入ったグラスが置かれるようになった。ある日そのグラスを指さして「お前これ何だかわかる」と私に聞いたことがある。飲もうとして口を近づけると、かすかに杏子の匂い。「ほんのちょっぴり」と父は、親指と人差し指の間を小さく開き子どものような顔をした。
 晩年父は「香り水だよ」と言って、水に一滴の果実酒を垂らし嬉しそうに飲んでいた。今は、下戸の私がこれを真似ている。