入賞作品の発表

第29回 「香・大賞」

銀賞
『 母の香り 』
広瀬 史子(ちかこ)
  • 63歳
  • 主婦
  • 三重県

 91歳の母との同居がある日突然始まった。
 気丈夫だった母に異変を感じたからだ。
 大好きだったドライブに誘っても「寝ている方が楽」と言い、ベッドから起き上がるのもお義理のように見えた。それでも私が訪ねる日は、私の好きなほうじ茶を作り缶に詰めて待っていてくれた。玄関を開けてほうじ茶の香りがすると心からほっとした。
 しかし母はどんどん小さくなっていった。我慢できず私はある日無理やり母を我家に連れてきた。
 日が経つにつれ母は遠慮がちに夫や娘の家族に「長々とお世話になって……」をくり返した。それでも少しずつ元気になり、離れのベッドから母家の洗面所まで歩くのが日課となった。ふと気がつくと、母の歩いた後は、6人分の履物がいつもきちんと揃えられている……。夫は、よろけるように歩く母がどのようにみんなの履物を揃えるのか不思議がった。私にも不思議だった。更にもう一つびっくりすることがおきた。3歳になる孫娘が、誰に言われたわけでもないのにみんなの履物を揃えはじめたのだ。
 母の存在が、私と娘をとび越えて確実に孫に伝わっていると感じた。そういえば私も母が来てから母のように丁寧にお茶をいれるようになった。食事もしっかり出汁をとり、じっくり煮込み、あたたかい湯気が台所にたちこめるようになった。そう、湯気のにおいの台所だ。幼い頃の「お勝手」がなつかしく体中によみがえっている。勤めから帰った娘が「なんかいいにおい!」と言うようになった――。
 母は母の香りをもっていた。本来香りのないはずのものにまで幼い頃の母の香りを感ずる。それはどれも母の生き様であり、母の築いてきた文化であろう。そんなことを伝えるために誰かが母を私のもとに使わせて下さったのかもしれない。感謝している。