入賞作品の発表

第21回 「香・大賞」

銀賞
『 塩っぱい蜜柑 』
冨永 知奈美
  • 42歳
  • 主婦
  • 山口県

 気の早い初雪の日、蜜柑を食べた。お風呂で食べてみた。艶のある薄い皮に爪を立てた瞬間、お風呂中柑橘類の甘酸っぱい香りが立ち籠めた。突然胸がキュンとした。泪が湧き出た。あの日の母を思い出して……。故郷(ふるさと)から届いた段ボールの箱を開けると、大切に包(くる)まれた野菜たちとカタカナ混りの祖母の走り書き、そして輝く笑顔の蜜柑が顔を覗かせている。まるで電報のような祖母の淡々とした文面はいつも母の倖せを信じる祈りのようだった。何度も読み返すと母は紅潮した頬に胸に蜜柑を抱きかかえた。蜜柑と土と古新聞の匂いがゆっくりとした時を包んだ。
 お風呂に入っていると母が後から入って来た。さっき夕食後「届いたばかりなのよ」と紹介され炬燵の上に籠に盛られていた蜜柑も二つ一緒だった。
「お風呂の中で食べるみかんは特別おいしいのよ」
と母は私の手に蜜柑を乗せる。
「おばあちゃんとこうして二人で食べたんよ、みかん……」
躊躇している私に嬉しそうに言い母が蜜柑に爪を立てた。いい香りがした。嬉しくて私も皮をむいてみた。甘酸っぱい霧のシャワーの中その実を口に入れたら瀬戸内の明るい太陽の味がした。目を閉じると宛ら穏やかな波に包まれているような気がした。
「…ううっ……」
突然の嗚咽に振り向くと、母が泣いていた。
「お母ちゃん……」
 一つの湯舟に入っている母が遠く感じた。いつも笑顔でいっぱいの母が一人の「娘」になっていた。
 あの日の母の年齢を過ぎ同じ「女」として今色んな母の姿を思い出す。蜜柑を頬張ったまま泣いていた母との距離は愛情という想いとなって私の中にある。冷たい蜜柑が年を重ねた体を潤す。美味しい。冬の夜お風呂で食べる塩っぱい蜜柑は格別においしい。