入賞作品の発表

第40回 「香・大賞」

佳作
『 春の匂い 』
いりこ
  • 33歳
  • 会社員
  • 東京都

 「ただいまー」と玄関を開けた瞬間に鼻をつく、防虫剤と桐が混じった独特の匂い。湧き上がる罪悪感と嫌悪感。
 「お雛様を出すのを怠ったら、娘が一生嫁に行けない」という母の強迫観念により、我が家の雛人形は毎年3月2日に桐の箱から慌ただしく引っ張り出され、2日後には新品の防虫剤と共にまた箱に収納される。お雛様とお内裏様の髪は乱れ、三人官女の持つ長柄銚子の柄はひん曲がり、銚子は錆び、祝いの盃は不吉なことにひび割れ、そして私はまだ嫁に行けていない。
 この雛人形は、私が生まれた年の桃の節句に祖父母が買ったものだが、雛人形から発せられる防虫剤と桐の匂いを、もはや「早く結婚しなさい」の無言のメッセージと捉えていた私は、迷信に囚われた母にも、雛人形を買った祖父母にも、雛祭り自体にも、いつしか罪悪感と嫌悪感を抱くようになっていた。
 だからその年も私は、1人で雛人形を片付ける母を尻目に、テレビを見ていた。
「ねえ、見てよこれ」
母が桐の箱から1枚の写真を取り出した。そこには、新品の我が家の雛人形の前で、もうこの世にはいない祖父母と若き日の母が、赤ん坊の私を囲んで微笑む、温かさと幸せに満ちた光景があった。幼い頃の思い出が蘇るとともに、使ったことのない「慈愛」の2文字が頭に浮かび、つい目が潤んだので「ふーん」と興味の無いそぶりで写真を母に返した。
 そして気づいた。子や孫の幸せを願うのは当然のことだと。そんな祈りが、雛人形には託されているのだと。
 今年で32回目を迎えた我が家の雛祭りだが、相変わらず私は独身だし、雛人形は臭い。ただ今までと違うのは、私も飾り付けを手伝い、人形達の髪を整え、三人官女の持ち物を新調したこと、そして結婚に囚われぬ、令和を生きる女性としての幸せを精一杯模索中であることだ。
 換気のために開けた窓から入ってきた沈丁花の甘く爽やかな香りが、雛人形の古いツンとした匂いと重なる。我が家に春が来る。