入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

松栄堂賞
『 消えた香り 』
大津 仁(おおつ じん)
  • 77歳
  • 東京都

 本棚の奥に黄ばんだ封筒があった。
 私の人生を変えてくれた封筒だ。1995年5月だった。終電で帰りポストを覗くと白い封筒があり、香のかおりが漂う。エッセイの入選通知であった。隣の長屋に住み不法就労で働くフィリピン人の男女に子供が生まれた。その無垢な瞳の将来がとても心配で、いたたまれず、涙でエッセイを書きなぐった。
 「香・大賞」に投稿したことは忘れていた。まして入選など。私は別世界から来た封筒に思わず頬擦りしてその香りに浸った。
 デパートの総務マネジャーだった私は始発電車で出社し終電で帰る。昨夜は緊急電話もない。安心して出社すると漏電や漏水の報告に肝を冷やす。開店までに昨日の売上金の実査、つり銭の補充、駐車場精算機のセットと忙しい。やっと朝の責任者ミーティングに駆け込むと、店長が遅れを叱責し、お客様の要望として無理難題が私に下知される。
 開店だ。お客様が期待して待つ開店のチャイムは戦いのゴング。クレーム、万引、浮浪者、変質者、無銭飲食と次々に発生し昼食もままならない。売上が厳しく、売場応援のサインミュージック「剣の舞」が鳴り響く。すぐに販売係に変身し売場に立ち、自分の席で仕事ができるのは閉店後である。もうダメだ、辞めよう。毎日殺伐とした気持で終電に乗り家に帰っていた。
 白い封筒の優しい香りは「あなたのエッセイ良かったよ」と、私の悩みを解きほぐし、夢を与えてくれた。それからは毎年エッセイを書き投稿していた。
 春先になると毎日、淡い期待でポストの香りを待つ。でも5月頃に入選作の小冊子が届き自分の名前は無い。しかし翌日はまた香りを求めてパソコンに向っていた。
 会社を退職し15年が経ち、エッセイもやめている。
 黄ばんだ封筒が本棚の奥から顔を出し「夢は持ち続けてね。私の香りが薄れても」。
 76歳の老人に語りかけてくれた。