入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

奨励賞
『 初夏の遅刻 』
江夏(えなつ) みどり
  • 24歳
  • 会社員
  • 東京都

 プールにも香りがあると知ったとき、なんだか仲間外れになったような寂しさを感じた。
 物心ついた時から鼻炎体質で、金木犀の香りも給食のにおいもよくわからなかったが、不便を感じたことはなかった。においを感じないことよりも困ったのが、発音の問題だ。鼻がつまっているので「ほんまや」と言おうとしても「ほぶぱや」のようになってしまう。音楽の歌の授業では、うまく発音できなくて、先生やクラスメートに注意される。特に歌の発音に口うるさかったのが、同じクラスの「オペラ」というあだ名の男子で、歌がうまく、年齢に似合わぬ演劇風の喋り方をすることから「オペラ」と呼ばれていた。
 小3のある夏の日のこと。プール開きの授業のときに、オペラがぼそっと言った言葉が、クラス中の爆笑をかっさらった。
「この鼻孔をくすぐるプールの香り、手探りな初夏の到来を感じさせるなあ」
声変わり前の幼い声で発せられる詩的なちぐはぐさが面白かったが、私は少し切なくなった。プールに香りがあるなんて知らなかった。みんなの中で、プールは初夏の香りだと共有されているからこの言葉は面白いのだ。プールをただの水溜めとしてしか感じていない私は、一生みんなと同じ「初夏」を感じられないのだろうか。
 田舎で1クラスしかなかった私たちは、ほとんど同じ顔ぶれのまま中学に進んだ。そして、ある理科の授業で私は強烈な体験をした。電気分解の授業で、塩素を発生させたとき。「くっさ、プールのにおいや」と誰かが言った。私は息を深く吸い込んだ。強烈な塩素は、私の鼻炎を貫通して気管に届いた。「塩素は毒や、窓開けなあかん!」とオペラが歌手みたいなよく通る声で言った。窓が誰かの手によって開かれて、冬の冷たい空気が流れ込んできた。わいわいと大騒ぎの教室の中、私は毒を鼻いっぱいにかぎながら、ひとり少し遅めの初夏を感じていた。