入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 蒸したタオルが、いつも少しだけ熱かった 』
しょうじ
  • 34歳
  • 主婦
  • 京都府

 入浴剤のタブレットの封を切った時、何故か強く「知っている香りだ」と思った。
 入浴剤の香りなど珍しくもない。檜、柚子、森林。それらの香りだって私は知っている。入浴剤なら普段から使っているのだから。しかしこの時は、何気なく開封した入浴剤の香りに、焦がれる程の強い懐かしさを覚えたのだ。手に残った袋には「サンダルウッドの香り」と書かれていた。
 サンダルウッド。白檀。名前を聞いてもいまいちぴんとこない。何がそんなに懐かしかったのかを思い出したのは、寝る前に布団の中で再びその香りを嗅ぎとった時だった。
 ――顔剃りの石鹸だ。
 私の実家は散髪屋だった。奥の座敷から店に降りると、蒸したタオルの蒸気に乗っていつもこの香りが漂っていたものだ。店主だった父が病に倒れて店を畳み、そして亡くなって10年以上が経つ。当時私は学生だった。母は憔悴し、姉は父を看取った直後に過呼吸で倒れた。そんな2人を見て、私は取り乱してはならない、と思った。泣いてはいけない。感情に蓋をしなければ。葬儀の時でさえ涙を流さない私は、恐らく端から見れば反抗期の冷たい娘に映ったかもしれない。父の死後、私は店の跡地にも行かなかった。店があった界隈にさえ、行けなかった。こわかったのだ。父も店もない、現実を見るのが。
 ――入浴剤が香る。サインポール。昇降する椅子の動き、音、電源ランプの赤。ハサミの音。顔毛剃り。筆で顔に石鹸を塗られる感触、温度。しょわ、という泡の立つ音。石鹸の香り。そして私の頭を支える、父の手。
 目を背ける為に蓋をしていたわけではない。忘れない為にしまいこんだのだ。店の記憶も、父の記憶も。なくなったりはしない。
 この入浴剤を使い始めて2年になる。箱入りのセットにはサンダルウッドは3包しか入っていない。私はこの3包のために、同じ入浴剤を使い続けている。