入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

日本経済新聞社賞
『 たこ焼きの香りと父の影 』
一条 夏希(いちじょう なつき)
  • 37歳
  • 介護福祉士
  • 宮崎県

 「お姉ちゃん! 今焼きあがったばっかりだよ!」
いつもは会釈してスルーする事が多い出店の声かけに、何故か妙な懐かしさを感じて顔を上げた。辺り一面漂う、ソースと鰹節の香り。スーパーの前に来るたこ焼きの屋台。いつもの人と違う年配のおっちゃんが元気にお客さんに声をかけていた。
 あぁそうか。このおっちゃん昔の父に似ているんだな。たこ焼きの香りとおっちゃんの風貌も相まって、昔の記憶の扉が開いた。
 私の父は世間一般から見たら多分ダメな父親だった。母と離婚した後の父の元に私は年2、3回程度顔を出していた。若い頃は流しでギターを弾いていた、コックもしていたから両手に皿をたくさん乗せれるんだ。そんな事が自慢の風変わりな父は、私が会いに来た時も私を連れて競馬場に行ったり、競輪場に行ったりとまあまあダメな父親ぶりを発揮していた。ある年の冬の事。父はいつも通り私を競馬場に連れて行き、当たった外れたと騒ぎ、幼い私はそんな父をダメな父ちゃんやなぁといった目で見ていた。その帰り道、大阪の繁華街を手を繋いで歩いているとたこ焼きの屋台があった。父は私に食べるかと確認した後、少し離れた所の何かに気付き、たこ焼きを3つ購入して戻ってきたかと思うとその内の1つをホームレスの爺ちゃんに渡した。少し会話し、いくばくかの現金も渡していた様に思う。そこからの帰り道、いつもはおちゃらけている父が本当に静かに「人間はいつ何があるかわからん。あの人は将来の自分かもしれん。偽善と言われようが、お前の目の前に困った人がいたらその時に出来る精一杯をやってほしい」と呟いた。
 熱々のたこ焼きを食べながら聞いた父の言葉の意味が、当時の私と同じ歳の娘を持った今ならわかる。
 あれから父とは会っていない。もう会う事も叶わないけど、あの日のあの時間と言葉はいつまでも私の胸に残っている。