入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

金賞
『 いのちを嗅ぐ 』
大塚 栞(おおつか しおり)
  • 41歳
  • 団体職員
  • 静岡県

 私の鼻は鈍い、らしい。自覚は無かったが結婚し夫と生活を共にするようになると気がついた。鼻が詰まっているわけではないのに、強く漂っても感知しない匂いがあるようだ。いつからそうなっていたのかわからない。受診もしたが、原因も、今後治るのか否かも不明だった。
 そんなわけで、一般的に嗅覚が鋭くなるといわれる妊娠中も、私の鼻は鈍感だった。食欲は大いに増進し、お腹の子は順調に大きくなった。
 それなのに、満を持してこの世に出てきた我が子は呼吸をしなかった。真っ先に私の胸に迎えるはずだった小さな命は、手の届かない処置台の上で挿管され、ドヤドヤと雪崩れ込んできた5人の医療スタッフらに囲まれて、慌ただしく手術室を出て行った。今しがた切った腹を縫合されながら、私にできることは何も無かった。何本ものチューブに繋がれて、身じろぎもできない体を横たえたまま、脳裏にちらつく絶望の片鱗に怯え、根拠のない希望にすがり、心だけが暗闇をふらふらと行ったり来たりした。
 でもその子はちゃんと息をして、私のところへ戻ってきた。思いがけない力強さで、まだ見えていないはずの乳を器用に吸った。母になった私は愛おしさを持て余して、赤ちゃんを嗅いだ。綿菓子のように柔らかい髪、ほっぺ、口、お腹、もみじの手、お尻、足の裏、隅々まで全部。その匂いの輪郭を明確に捉えることはやはりできなかった。それでも暖かくて湿った甘やかな何かは、鼻腔から肺を介して全身に広がり、私を1日遅れの祝福に包んだ。
 あれから3年。私の鼻は呼吸はすれど、嗅覚は相変わらずのポンコツだ。しかし私の手を握って隣を歩く小さな鼻は、誰かの庭のジャスミンを嗅いでうっとりする。ギンナンを落とす銀杏並木の下で、くさあいと顔をくしゃくしゃにする。隣家の夕ごはんはカレーだねと言う。世界に満ちる見えない空気の彩りを、私に教えてくれる。