入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

佳作
『 五分間 』
内野 紅(うちの こう)
  • 東京都

 「鍵っ子ちゃん」当時、同じマンションに住んでいた老夫婦は、小学3年生のわたしをそう呼んだ。母子家庭であることを夫婦は憐れみと母への皮肉を込めてそう呼んだのだろうが、残念ながら、孤独を感じたことは無い。正しくは、感じた孤独を翌日に持ち越したことはない。それは毎晩、母の香りに満たされる幸せな五分間があったからだ。
 23時頃、仕事を終え帰宅した母がお風呂から出てくるのを、わたしは布団の中で息を潜めて待った。浴室のドアが開く音を合図に布団から勢いよく飛び出し、身体を拭いている母に飛びつく。
「あら、また夜更かし! 早く寝なさい!」
 口調は厳しいものの、母の声は愛しさでいっぱいだった。
 歳をとると1秒が命取りだと言いながら抱きついたままのわたしを宥め、母は急ぎ足でスキンケアをはじめる。洗面所の引き出しのひとつから化粧水を取り出して手のひらに出すと、その瞬間お花の香りがふわっとわたしの鼻をかすめる。日常のどこを探してもここでしか嗅げない特別な香りに、まるでおとぎ話のお姫様になったような感覚を覚えた。薄いピンク色した硝子の瓶に、金色の重厚なフタで閉じ込められた化粧水。その中にぎゅっと凝縮された花たちがオーケストラを奏で、わたしと母のいる空間を特別なものにしてくれた。香りを嗅ぐことを口実にまた母に抱きつき、目を閉じて深呼吸を繰り返す。きっと同級生の親子のようにその日あった出来事を話すような時間は無いけれど、この五分間はわたしにとって1日の孤独を洗い流す大切な時間だった。
 あれから20年が経ち、化粧水はとっくに廃番になった。一人立ちして母と暮らすこともなくなったし、久しぶりに会っても母に抱きつくなんて照れ臭くてとても出来ない。けれど実家に帰るとわたしは、あの香り恋しさに、ついつい深呼吸してしまう。それはもちろん、お風呂上がりの母の隣で。