父は一般的なサラリーマンではない。調理師であり、自営で飲食店を経営している。母もそれを手伝っている。小さい頃から、
「自営業かあ。大変だね」
と言われてきたから、父さんも母さんも大変な仕事をしているんだと思っていた。大きくなって、その「大変だね」が「不安定な収入で大変だね」という意味だと分かると、よけいに両親のことが心配になった。
だが、父も母も、家計のことについては、いっさい口にしない。
「景気はどうなの?」
と父にたずねても、
「ぼちぼちだ」
と答えるだけであり、母にたずねても、
「まあまあよ」
と答えるだけだ。だが、私は、1つのことに気がついた。お客さんがたくさん入ると、父の白衣は洗剤の香りが強くなるのだ。
父の白衣は母が洗濯している。お客さんがたくさん入り、白衣が激しく汚れると、母は洗剤を大量に入れて洗濯機をまわす。技術の進歩によって洗剤も高性能になり、少量でも汚れは落ちるようになったのだが、母の認識は以前と変わらず「汚れが激しい衣類は洗剤を大量に入れるべし」である。
不景気でお客さんが入らない時は白衣は汚れない。同時に、父の白衣から洗剤の香りは強く漂ってこない。だが、お客さんがたくさん入り、白衣がすごく汚れると、母の使う洗剤は増え、香りも強くなる。
私も大きくなると、両親に「景気はどう?」とは訊かなくなった。白衣からほんのり香る洗剤によって、景気の判断がつくようになった。
70代の両親は、今も店を経営している。
たまに実家に帰って、白衣から洗剤の香りが強く感じられると安心する。
ああ、景気、いいんだね、と。