香りのスタンドバーがあればいいなと思っている。新鮮さが売りのジューススタンドみたいにフレッシュな香りがカウンターに並び、お客さんはその日の気分や体調から今日の1杯ならぬ〝ひと香り〟を選ぶ。その場で勢いよく吸い込むから、できればオープンエアがいい。香りは鼻から脳に向かい、新風のように脳のすみずみに吹き渡る。目を閉じて、香りが記憶や感情を軽やかにしていくひと時を味わう。そしてパッと瞼を開ける。するとどうだろう。さっきまでのモヤはどこへ行ったか、視界は良好だ。
思いついたのは、わたしではない。10ほど年上の仕事の先輩だ。編集者だった彼女はファッションやカルチャーにつよく、その良さを自分の言葉で語れる人だった。彼女の口からは街やメディアに仕掛ける企画がいつも溢れ出た。「ひと香りワンコインくらいで買えてプチメンテができるの。いいでしょ」とアイデアの素を聞かされたとき、わたしはただ「じゃ、名前はカオリバでどうですか」と返すのが精一杯だった。
彼女はその後大病を患い、一線から退いたと人づてに聞いた。1度だけ彼女に電話をしたことがある。脳に後遺症があるのだと言っていた。「またね」と弱く沈んだ声で電話は短くきれた。
彼女とはそれきりだ。けれど歳を重ねた今になって、彼女があのとき発したアイデアにわたしは魅了されている。曇ったり沈んだりしがちな感情をお酒や推しで回復できるほどのパワーもないとき、それでも切り替えていかなくちゃいけないとき、目が覚めるほどの香りを胸いっぱいに吸い込んでみたいと思う。優雅なホワイトローズや森林のみずみずしい香りが内から洗い流してくれる感覚を想像してみる。視界は晴れ、背中を押してくれることもあるだろう。そんな香りに出会えるスタンドがあればいいと心底思う。
そしていつか彼女に会って話のつづきができればと思う。今ならわたしも語れるだろう。香りのスタンドバー、カオリバのこと。