入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

佳作
『 父と嘘と煙草の香り 』
藤田 Alice 公子(ふじた ありす きみこ)
  • 62歳
  • 自営業
  • 山梨県

 8年前に91歳で亡くなった父はシベリヤ抑留を経験している。炭鉱での過酷な労働を2年間強いられ、空腹のため石ころが黒パンに見えた話。トロッコが脱線し転覆、乗っていた人の多くは亡くなったのに、父は生き残った話。カチューシャの歌をロシア語で歌ってくれたこと。父は話し上手で、ハイカラでとても愉快な人だった。
 70歳の時、肺気腫を病み、医師から禁煙を言い渡された。父は酒が飲めなかった。盆栽とタバコが父の好きなものだった。昔の成人男性の多くがタバコを吸っていたように思う。ヘビースモーカーというほどでもなかったが、父の近くに行くとたばこの香りがした。私も父がタバコを吸う姿は嫌いではなかった。父は医師から喫煙を禁じられてから我々に隠れてタバコを吸うようになった。匂いで父がたばこをすってきたことがわかるのだ。しかし、父亡き後、母はそのことに気が付かなかったと言った。というより、母は父を全面的に信じていた。父がタバコはやめたと言ったら母はそう信じて疑わなかった。
 私が初めてタバコを吸っているのを父に見つかったのは20歳の時のことだ。父は何も言わなかった。まじめな品行方正な? 娘が……さぞかしショックだったのではないだろうか。父の驚愕の表情を見て、私はひどく自分を恥じ、タバコを吸うのをやめた。
 父は、85歳で喉頭がんを患った。その時も医師から喫煙の習慣を尋ねられたが、父は「タバコは60歳でやめました」と医師に言った。嘘だ。父は隠れて89歳まで吸っていたのを私は知っている。父が亡くなった時、私はお棺の中にこっそり小さな箱に入れて、3本だけタバコを収めてあげた。「お父さんの好きなタバコを入れたよ」と父にしがみついて泣いた。父を思うとき、煙草の香りも一緒に思い出す。誰に何を言われても、結局父はタバコをやめなかった。私はそれでよかったと思っている。