我が家に電話機が備わったのは中学生の頃。それまでは向かいの家の、それも交換手が繋ぐ電話を借用していたことからすると、後のテレビ設置と並ぶ最大の家庭内革命だった。
黒光りした電話機の、0〜9までの数字の穴に指を突っ込んで覚えの番号を回すと相手と通話が出来る。送話口の小さな穴から言葉が吸い込まれて離れた相手に届くのが不思議だった。相手が応答するまで、その不思議さに捉われてドキドキしたものだった。
送話口の小さな穴はちょうど鼻の辺りに留まるから、自然にその穴から漏れる微妙な臭いを嗅ぐことになる。それはボクを含めた家族の微かな口臭の蓄積に他ならない。決して香しいとは言えないものの、形容しがたいクセのある臭い。嫌いではなかった。
ある日、その家族の匂いに不快な臭いが加わったのに気づいた。異種の匂いの行き着く先はどうやら母だった。
母は、2週間前に病院から退院。やっと家族の顔が元通りに揃い、知り合いの人も訪ねてきて我が家に活気が戻っていた。ただ、病気がガンだったことから、その活気もどこか不安を宿していたのだが……。それでも母は、病院から寛解のお墨付きをもらったのだと不安の欠片も見せず、知り合いに盛んに電話を掛けては逢う約束を交わしていた。
そんな中、誰より早く異変に気づいた。
母に掛ってきた黒電話を何度か取次いでいるうち、送信口から漏れる匂いの中にいつもとは別種の酸っぱい臭いが混ざっているのを察知したからだ。いやな予感が走った。
予感は当たっていた。母は退院から一月後に再入院、その半月後に帰らぬ人になった。
一時の帰宅は、少しの間でも自宅で過ごしたいと言う母の願いを病院が受け入れ、家族も承知の上の措置だった。知らないのはボクばかり。それでもスマホを使う今も、黒電話のあの臭いと浮かんでくる母の顔は鮮明だ。