入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

銅賞
『 酢飯 』
中野 満友(なかの まゆ)
  • 29歳
  • 会社員
  • 東京都

 幼い頃から、酢飯を作るのが私の役目だった。ご飯を混ぜた瞬間、鼻にツーンとくる。立ち昇る湯気で、たまに咳き込んでしまう。だからといって、団扇で控えめに扇ぐと、母に怒られる。酸っぱい香りを浴びながら、手巻き寿司のネタをつまみ食いして、よく笑われていた。
 酢飯の香りは、いつも私の節目に漂ってきた。初めて25メートル泳げた日も、受験で合格通知をもらった日も食卓にあった。でも一度だけ、特に何でもない日に、母から酢飯を作るよう頼まれたことがあった。
 いや、正直に言えば、私には何でもある日だった。その日、生まれて初めて彼氏ができた。朝は、友達と出かける振りをして家を出た。スカート丈が少し短かったことを除けば女子会に行く時と変わりがなかったはずだ。だから驚いた。デートからの帰り道、母から
「今日は手巻き寿司です。酢飯よろしく」
とラインが届いた時は。彼氏に、今日はありがとうラインを送ってから、母には何事もなかったかのように、了解のスタンプだけを押した。
 帰宅してすぐ、ジャージに着替えた。いつも通りと鏡の中の私と頷く。ダイニングには熱々のご飯と酢飯の素が用意されていた。母が渡してきた団扇にプリントされた犬と目が合う。その下のLOVEの文字は偶然だろうか。
 気が付いた時には、酢飯の素を多く入れすぎていた。動揺する自分に、思わず笑ってしまった。いつもより遥かに強い酢の香りを纏いつつ、味見のために口に運んだ。私がむせたのは言うまでもないが、それは多すぎた酢の仕業なのか、
「彼氏とデートどうだった?」
という、全てを見透かした母からの質問が理由なのか。ニヤリと笑う視線を背後に感じつつ、再び団扇で扇ぎ始めた。私を、甘酸っぱい香りが襲った。