入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 天に上ったソース 』
濱本 祐実(はまもと ゆみ)
  • 62歳
  • 主婦
  • 兵庫県

 焼きそばやお好み焼きのソースが鉄板で熱せられると、胃袋をくすぐる香ばしい香りが放たれる。27年前、町一面に広がるそのソースの香りが私の体を押し包んだ。あれは、世界一悲しい香りだった。
 ほんの数秒の震災の揺れは、私の仕事や思い出だけでなく、生きる気力すら奪い取っていた。そんなある日、生まれ故郷の新聞社で働く友人から連絡を受けた。京都駐在の記者を取材に回すので、案内してほしい、と。
 辛い役割だったが何とか果たし終え、私は再び、死んだような暗闇の町へと戻った。
 夫の職場のあるその町へは、何度足を運んだだろう。もう原型を留めていない。地面に叩きつけられた木材の山は、誰かの家。ブルーシートで覆われた庭は、誰かの臨終の地。一面の焼け野原は、多くの魂が燃えた場所。
 涙をこらえる私の鼻先に、場違いなソースの香りが漂ってきた。
「誰? こんな時にお好みなんて……」
 避難所ではまだ菓子パンやおにぎりの生活が続いている。一体どこのどいつが悠長にお好み焼き? それもこんな大量に。
 言いようのない怒り。匂いの出所を見届けようと、私は夢中で辺りを走り回った。
 だが灯りのひとつもなく、人の影すら見えてこない。それなのに、これでもかと言うくらいに充満する強烈なソースの香り。
 いらつく私の目の前に現れたのは、幽霊屋敷のような建物だった。その瞬間、呼吸が止まった。老舗ソース会社の工場の焼け跡だ。
 自分を思い切り殴りたかった。
 堰を切ったように涙が溢れ、私は何度も何度も呟いた、ごめんなさい、と。
 その後新工場を建設した会社は、今も神戸のお好み焼き文化を支え、あの日を知らない若者たちの胃袋を満たしている。
 だが、私は今でも香ばしいソースの香りに触れるたび、あの真っ暗闇の中の、焼け焦げた町と工場を思い出すのだ。