入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

日本経済新聞社賞
『 竹馬の友 』
辰田 純朗(たつた よしあき)
  • 81歳
  • 書家
  • 大阪府

 彼の奥さんが他界されて2年になる。痴呆症を患らっている彼を心配しながら亡くなった。2人の娘さんが代る代る面倒をみておられるが、車椅子での散歩は私が受け持った。80キロの体重の彼を小1時間の散歩は私にしても重労働で近頃では毎日だったものが2日に1回にした。特に土手にあがる坂はきつく、散歩をされている顔見知りの方が手伝ってくれる。耳が遠いうえに言語の理解も㞮来(でき)ない彼に大声で話すが意思疎通がうまくいかず、不満の大声をあげる彼に短気になってしまう自分を度々反省しつつ1年半が過ぎた。
 彼の家は3軒むこうで兄弟同然に育った。小学3年生の夏、溜池で小鮒釣りをしていて水に落ちた私を荒縄を投げて助けてくれた。その事は親にも話していない。甘い物がなかった頃、砂糖黍(さとうきび)を盗ってお百姓さんにしかられ、暗くなるまで畑で立たされた5年生の頃。涙でボロボロの私の顔を自分のシャツで拭いてくれた彼の横顔とあの日の夕焼けが美しかった。隣村のやんちゃの群と2人で戦った中学生時代や、有り金を叩いて野球好きの私にグローブをプレゼントしてくれたあの時の誇らしげな彼の顔が車椅子の彼の後姿に重なる。高校は別々で、彼は一流高校、私は二流高校でよく宿題を手伝ってくれた彼は立派な大学に入り役人に。でも友情は今も厚いものがある。
 大家の前を通るのが嫌いな彼は大声で早く進めと喚く。大家の奥さんの事が嫌いらしく、話掛けられると涙を流して首を横に振る。そんなある日、梔の枝をくださった。その枝を抱きしめ、花に頰付けして、にっこり笑った。
「ええ匂いやー」
全く喋ることがない彼が奥さんの顔を見て言った。暮れなずむ空を仰ぎながら「ええ匂いやー」と何度も車椅子から身体を捩(ねじ)りながら私に伝えた。涙がこぼれた。何もわからない身体になっていると思っていた彼が梔の花の香をわかってくれたことに。数多の思い㞮(で)を食べながら彼と余生を生きていく。