入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

金賞
『 金木犀の庭 』
小田 陽子(おだ ようこ)
  • 59歳
  • 会社員
  • 茨城県

 金木犀の花の香りに酔ったことがある。あの時はひどい目にあった。香りの記憶は、実像もないのに、遠く去ってもあざやかに匂いたつ。
 初秋の庭、小学生だった私は、友だちとバドミントンをしていた。そのうち勢いがあまって、シャトルを木にひっかけてしまった。その木は祖父ご自慢の大きな金木犀で、まさに満開のさかり。これでもか、というほどの強い香りを放っていた。ふたりで幹をゆすると、小さな金平糖の妖精のような花がザザーと降ってきて、頭から花がらをかぶった。肝心なシャトルは落ちてはこなかったが、私たちは花のシャワーに魅了された。まるで妖精に呼ばれたかのように、木の下にもぐりこみ、枝を揺らしては、橙色の雨に打たれた。落ちる花が少なくなってくると、違う枝に跳びついて、最後には、とうとう木に登り始めた。足をかけて枝にしがみついてみたり、馬乗りになってみたりと、上に上にと空に近づいて、有頂天になった。葉の混んだ木の内側は、まるで秘密基地だ。葉陰に隠れて下界を見下ろすと、自分が偉くなった気がして、はしゃいで笑い合った。そうして、むせ返るような香りの中、暗くなるまで木の上で過ごした。透明な秋の光と、おおらかな時間がそこにあった。ところがその夜、頭がフラフラして、調子がおかしくなってきた。木の妖精のバチか。自分のすべてから金木犀の香りがして、どこにも逃げ場がない。次第に目がまわり、どうにも気持ち悪くなってきた。いっぱしの酔っぱらいだ。青ざめた私をみて、祖母は
「おばかだね、この子は。花の香りにあてられて」
と笑った。
 秋、香りにのって、懐かしい少女時代の思い出が時間をこえて甦る。あの木はもうどこにもないが、香りの記憶はいつまでも鮮明に変わらない。大人になった今でも、満開の金木犀のそばを通るときは、息を止めて速足になる。また、あの香りにやられないように。