入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

佳作
『 うみ 』
秀島 由里子(ひでしま ゆりこ)
  • 22歳
  • 学生
  • 広島県

 「磯の香りがしない」
 自分がおかしいのかと思って呟いた言葉に、ガイドさんは
「プランクトンがいないんですよ」
と応えてくれた。
 高校生の頃、私は福島県の復興について考えるために様々な場所へフィールドワークをしに行った。水俣へ訪れたのも、環境汚染の過去を知り、現在を知り、フクシマの復興に繋げるためだった。
 水俣の海が水銀で汚染されたことは、事前学習などを通して知っていた。水俣病が起きた原因も、水俣病についても、水俣病患者の方が現在どのように生きているかも、見たり聞いたりして知っているはずだった。けれども、この海を私は知らなかった。海なのに海の香りがしない。それは大きな水の塊のようでもあって、青色の闇のようでもあった。水俣の人の食文化は魚が中心であったことを思い出し、息を飲んだ。多分、この海は涙の溜め池でもあるのだろう。
 その日の夕食のカルパッチョは美味しかったけれど、変な感じだった。魚の骨が喉に引っかかったような気分で上手に笑えなかった。食事の後、先生と2人で話すと、先生は眼鏡を上にあげて、大きな手で両目の目頭を押さえた。涙が零れることはなかったけれど、先生は泣いていた。魚の眼のようにウルウルとしている先生の目と、私の目が合うことは無かった。
 水俣の海はフクシマの海とは違う怖さがあった。東日本大震災の時に多くのものを飲み込んだ海が、静かに揺れていた時とは違う怖さが。
 原発の処理水が海に流されることが決まった。私の記憶の中には2つの海がある。水俣の海とフクシマの海。この2つが同じ海になってしまうのだろうか。復興の匂いはどんな匂いだろう。私は深く息を吸い込んだ。