入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

佳作
『 道しるべ 』
村田 園絵(むらた そのえ)
  • 45歳
  • 主婦
  • 埼玉県

 玄関を開けたら良い香りがする家に生まれたかった。できればスマートな両親の子供に生まれたかった。仕方のない事と分かっているが、忘れられない匂いが季節と共に未だ甦ってくる。
 我が家の春は、山菜の茹で上がりと共にやってくる。小学校から帰り、玄関を開けた瞬間、むせ返る春の重いパンチを顔面に受ける。目も開けられず、クセーッと外で一度叫んでから、息を止めて2階まで駆け上がる。
 ドアに身をすべり込ませながら
「大地の恵みよ! 有り難い! 有り難い!」
と、母のゼンマイ、コゴミ責めが、これから3日は続くのだと、ああ春が来たのだと観念をする。
 秋の銀杏も強い。だが、それ以上に苦しめられたのはムカゴだ。母がムカゴご飯を作る夜は、兄と妹のみならず、父や祖父母さえも下を向いていた。強烈な匂いがするわけではないが、良い匂いがすることもない。小さなムカゴは皮が口に残り歯触りもキーンとして噛む事を躊躇わせる。お茶碗1杯が果てし無い。大丈夫と思っていた地味な匂いは、ゆっくりと、しかし確実に米へ移り鼻腔へ留まる。そして気が付いた時には全てを奪われているのが、ムカゴの最強たる所以である。
 この春夏秋冬高濃度の恵みから逃げるように、私は最短コースで都会へ走った。家庭を持ち、白い新築を建て、いい香りのする玄関で子供たちを迎える。タオルもシャンプーも虫除けもティッシュも、どれも良い香り。「香り付きの日焼け止めクリーム」を店頭で見つけた時に、子供たちは良い香りだけで育つのかと、ふと思った。あの顔面パンチを経験せずに大人になるのかと、足が止まった。
 迷う私の鼻腔に、あんなに嫌がっていた匂いが、人生の道しるべとして笑っている。ああ、あんなに嫌がっていた匂いを、人生の重要なピースと感じてしまうなんて。悔しいけれど私もスマートな親になる事はないのだろう。クリームを棚に戻し、一歩を踏み出した。