入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

佳作
『 テッパンエレジー 』
安部 瞳(あべ ひとみ)
  • 46歳
  • 主婦
  • 大阪府

 キッチンに立つ母といえば、私の中で、エプロン姿ではなく、トレンチコートを着た姿である。女手一つで私と姉を育てていた母は、保険の外交員だった。夕方、帰宅するなりコートを着たまま台所に立つ。手早くご飯を作り、再びお客さんのところへ。母が多忙な時、決まって我が家にはソースのかおりが充満する。お好み焼きの登場回数が増えるからだ。具は千切りキャベツと生地のみ。肉はほとんどない。さびしい材料でも、最後にソースのジューッという音と、食欲をそそるにおいで、一気にごちそうになった。
 ある日のこと。母が上機嫌で仕事から帰ってきた。
「これ見て」
といって机に置いた封筒の中には札束が。
「大きな契約が取れてん。これで美味しいもん食べよう」
と母。早速、私達はスーパーへ繰り出した。
「焼肉?」
「やっぱりお寿司!」
夢のメニューが口をつく。けれど一通りはしゃぎ終わると、ふいに母のコートの擦りきれた袖が目に入った。私は精一杯、無邪気に言った。
「やっぱりお好み焼き食べたい!」
すると姉も続いた。
「私も!」
母が私達の言葉をどう受け取ったのかは分からない。
「じゃあ、お好み焼きにしよう」
といって、豚肉にイカ、ホタテ、エビ……と次々カゴに入れていった。
 家に帰り、早速お好み焼きパーティーである。華やかな食材が生地の中へ、次々と投入された。最後の仕上げは、いつものソース。香ばしい煙の向こうで母が笑いながら言った。
「具材が何でも、ソースかけたら一緒やね」
貧しさも、寂しさも包み込む無敵のかおりが、そこにはあった。
 今、夫と囲む食卓に、お好み焼きが並ぶ。ホットプレートにソースが1滴こぼれ落ちた瞬間、ふいにトレンチコートのまま包丁を握る母の姿が頭をよぎった。