入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

佳作
『 マッチを擦るとその瞬間 』
深見(ふかみ) フミ
  • 56歳
  • ウェブデザイナー
  • 大阪府

「この人と一緒にいてもなんにも楽しくないのよ」。無口な祖父は祖母の気に入ったことが言えなくて時々そうなじられていた。
 終戦のある日、祖父が亡くなったと電報が届き、祖母は庭に干していた布団に突っ伏して泣いた。ところがある日ひょっこり祖父が帰ってきた。そして元々無口だったのに拍車をかけて話さなくなった。
 戦争から帰ってきた祖父は時々夜中に叫んで起きたと祖母から聞かされた。辛い経験をしたのだろう。祖父の口から戦争の話は一度も聞かされなかったが、物言わぬその姿が大いになにかを語っていたように思う。
 祖父は夕食前に酒をお猪口で1、2杯呑むのを楽しみにしていた。お猪口の下に置いた受け皿に酒が滴り落ち、そこにマッチで火をつけてくれた。まだ小さかった私は、マッチのすえたような焦げ臭い匂いと酒が蒸発する匂いが混ざった空気に包まれて、祖父の膝の上でゆらゆらと青い炎を見つめているとなにか神妙な気分にさせられたものだ。
 自分より年下の祖母が先に亡くなった時「こんな馬鹿なことは無い」とメガネを外してスーツの袖で涙を拭っていた姿に、言葉にしないたくさんの思いを見た。そして祖父もまた平成の初めに93歳で亡くなった。
 令和になりコロナ禍のなか、ソーシャルディスタンスが叫ばれアウトドアブームがじわじわと広がってきている。私もソロキャンプに出かけるようになり、ホームセンターで久しぶりにマッチを購入した。焚き火台の上に薪を置き、マッチを擦るとその瞬間、煙の匂いとともに青い炎に包まれ50年の年月を超え、私は子どもだった自分に戻り祖父の膝の上の特等席に座る。
「おじいちゃん、世界はまた波乱の時代になっているよ」
 ここ数年の世の中や自分に起きたさまざまな出来事に圧倒され疲れ果てていた私は、少しのあいだマッチの青い炎を見つめた。