「お風呂場の入り口にキノコが生えると、秋になったって子どもの頃思ったなぁ」
貧しかった幼少期のエピソードを持ちネタとして楽しそうに語る弟。
当時住んでいた平屋の文化住宅には、コンクリートむき出しのお風呂場があったが、そこの敷居は木が朽ちていて謎のキノコが生えることがあった。
「そんな事もあったね」
と笑う私。
弟よ、本当の貧乏な家を知らないから笑って話せるのだ。
弟が3歳の頃まで、隣町の二間しかない家に家族6人で住んでいた私の家族。
「お前んちボロいなぁ」
「これじゃ、〇〇の家の方が立派だよなー」
友だちを家に呼ぶ事は惨めな気持ちになる事とイコールだった小学生の私。母が見栄を張ってか、私の髪をお嬢様風に結び、黒のビロードのリボンをつけて登校させていたのが、私の気持ちを余計に複雑にした。
「家を見られなければ、クラスの中心にいられる」
小学生の私は真剣に信じていた。
その長屋の私の家には、小さな庭があった。そこには、大きな沈丁花が植えられていた。
春が近づくと、花芯が小豆色の華やかな花が咲く。独特の甘く高貴さ漂う香りは、我が家と対象的な佇まいだった。その強い香りは、私の劣等感を暫し吹き飛ばしてくれた。
学校の作文に、庭の沈丁花の記述を忍び込ませ、その花の香りと共にある暮らしを、実像から虚像へ変えわずかな陶酔を得たりした。
あれから50年経ち、住宅街でふと、沈丁花の香りを見つけると、髪をビロードのリボンで結わった虚栄心と劣等感のはざまで揺れる女の子が浮かぶ。そっと近寄り、窮屈に縛ったリボンをほどいて、蒸れた髪を柔らかい春風にさらし「大丈夫だよ」と力を込めて、その香りごと抱きしめたくなる。