入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

佳作
『 銀木犀 』
石倉 尚子(いしくら ひさこ)
  • 64歳
  • 主婦
  • 熊本県

 新築の庭に植えられた銀木犀。私が高校に入学した秋に、初めて一斉に花を付けた。
 厚みのある小さなミルク色の花びらは、十文字に開き、愛らしい。華やかな金木犀とは違い、銀には銀の、どこかしら奥ゆかしい香りを放つ。
 年ごろの反抗期だった私は、その頃ずっと父とぎくしゃくしていた。仕事人間で家庭を顧みず、嫌いだった……。
 その朝も、まるで珍しいものでも見る、そんなわざとらしい意地悪な目で庭の父を見ていた。だが、なぜか父は突然私に微笑みかけて、手招きで呼んだ。
 不意を突かれ、まるで催眠術にかかったかのように、呼ばれるままに庭に出て行った。
 秋晴れの冷たい空気とともに、辺り一面に爽やかな銀木犀の甘い香りが降りている。
「ほら、得も言われぬ天女の香りだろ」
父が言った。大笑いしたかった。いつもなら当て付けで、大袈裟に笑い飛ばすはず。
 でも、その日の父の横顔には、なぜかそれをさせない雰囲気が漂っていた。どこか恥じらう青年のような、私の知らないひとりの男性だったのだ。気品に満ちた清純な香りとも相まって、居場所をなくして部屋に戻った。
「お父さんったら、銀木犀のことを『得も言われぬ天女の香り』だって」
と母に告げた。
「まぁ。昔、少年兵の時、満州の地で向こうの初恋の人と一緒に銀木犀を眺めていた……とか。そんな思い出でもあるんじゃないの? どうせそんなもんでしょ」
「え。だめでしょ、そんな言い方したら」
私がなぜ父を庇ったのか……わからない。
 それ以来、父への反抗心は嘘のように消え失せた。天女の催眠術は早々には解けない。
 ――あれから半世紀。父も母も、もう天女の住むところへ行ってしまった。
 それでも銀木犀の香りは、あの日のあの木の下に、瞬時に連れていってくれる。