入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

銅賞
『 見えないものを 』
佐藤 真治(さとう しんじ)
  • 47歳
  • 京都府

 職場へ向かう道沿いの植木屋さん、店先の街路樹の根元に、ローズマリーが植わっている。種が飛んで自然に育ったのか、それとも植木屋さんがいたずら心で植えたのか。ワイルドに葉を伸ばし、今は小さな薄ピンクの花を咲かせている。私は前を通りながら、指先で彼らの先っぽにちょいちょいと触れる。仕事に遅れないよう、足早に歩きながらその指先を嗅ぐと、スパイスか芳香剤か、どこかで香ったことのある爽やかな匂いが鼻腔に広がる。
 こうするといい匂いがするよ、と教えてくれたのは現在のパートナーだ。私たちのデートは、川沿いや公園をひたすら歩き回ることが多い。彼は農学部出身で、だからというわけでもないらしいけれど、そこらへんに生えている野草に詳しい。これはヘクソカズラ、名前の通りヘンな匂いするよね。あっ、もうサルスベリが咲き始めてるね。これ綺麗だけど匂いは全然しないんだよね。そんなことを言いながら、立ち止まって花や草をくんくんしては、私たちは遊歩道を歩いていく。
 はた目には変わった人たちに見えるかもしれないけれど、私たちは頓着しない。私の住む郊外の町では、中年男性2人が仲良さげにつるんでいるだけで目立ってしまうような雰囲気がある。でもそれも、いつの日か気にしなくなってしまった。置かれた場所で咲きなさい、と誰かが書いていたように、生まれ育ったこの場所で、見えない何かを憂慮したり、やましくもないことをごまかしたりすることなく、自然に、時に手をつないで、一緒に歩いていくことにした。
 指についたローズマリーの匂いは、職場に着いても微かに残っていた。私と彼との間に、目に見えて形のある、確かなものは何もない。それでもローズマリーのほのかな芳香は続いていて、私に見えないものの存在を信じさせてくれる。