入賞作品の発表

第38回 「香・大賞」

銅賞
『 珈琲とやってくるもの 』
けいしー
  • 21歳
  • 学生
  • 大阪府

 私は珈琲の香りがすると、心の奥で柔らかなさみしさを感じる。
 小学生の時、学校から帰ると私の家は薄暗く、香りがしなかった。共働きの両親は2人とも珈琲が好きだった。たまに父や母が家にいると、玄関のドアを開けた時、珈琲の香りがした。嬉しくなってランドセルを背負ったまま、自分の部屋を通り越してリビングに向かう。息を切らした赤い顔で学校での話をしていたと思う。これは当たりの日。はずれの日もあって、母が遅番の日。珈琲の香りに期待してリビングに入ると部屋は薄暗い。母が出発前に淹れた珈琲の香りはしても、母はいない。さっきまで明かりがついていたのか、少し熱の残った部屋にいるのは私ひとりだった。
 10年経って、真っ黒な味のする珈琲が美味しいと思うようになり、当たりはずれの日があったことも忘れた。珈琲は勉強のお供やカフェでの主役を引き受けてくれた。
 大学生になると同時にオンライン授業が始まった。広がると思っていた世界は狭まった。閑散とした街や、どこか距離のある人々に対して自分の感覚は尖っていて、息をするのも慎重に、匂いを感じないようにしていた。ぽかぽかの太陽や花の香りに春の訪れを感じるように、香りは普段気が付かない変化を教えてくれて、私を過去や未来に連れて行く。凍った嗅覚では過去を懐かしむことも、未来を思い描くこともできなかった。ノートパソコンの画面に向かって毎日が過ぎるのをぼーっと見ていると妹が珈琲を淹れてくれた。ゆらゆらと昇っていく白い湯気とともに訪れた香りは、小学生の頃、玄関のドアを開けたときと同じように私を包み込んでくれた。と同時に、思いがじゅわっとした。当たりの日に100点のテストを褒めてくれた父。はずれの日におやつのケーキを焼いておいてくれた母を思い出した。小学生の私は寂しかったこと、さみしさだけではなかったことに気が付いた。