入賞作品の発表

第37回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 ダッシュ 』
井島 克也(いじま かつや)
  • 59歳
  • 会社員
  • 大阪府

 「かつや、お給料ばもろて来て」
「うん、よかよ。行ってくるばい」
母親から社員証カードに繋がれた印鑑を渡され、ダッシュで炭鉱の事務所へ駆けていく。小学1年の私が、家族の1か月分の大事な生活費をもらいに行くという使命感と、母親には内緒の楽しみに、少々昂っていた。
「かっちゃん1人で来たと? えらかね」
お金が入った茶封筒をくれるおばちゃんに、自慢げに頷く。昭和45年の親父の月給はいくらだったのだろう。子供ながらに、中を開けて見るのはいけないことと理解していた。
 封筒を手に、そーっと事務所の奥へ入っていく。ここから先は子供の領域ではないこともわかっている。おばちゃんも見て見ぬふりしてくれた。古く汚れたロッカーが並ぶエリアへ侵入すると、独特の匂いに包まれる。大人の汗の匂い、石炭の匂い、時折奥の大浴場からの湯気と石?の香り。長椅子に座って、早出の『一番方さん』が上がってくるのを待つ。たぶん同級生で自分だけ経験するこの空間と時間が、誇らしく大好きだった。
 海底よりも深い坑道から地上へ戻ってきたおっちゃん達が、ぞろぞろと階段を上がってくる。泥んこ遊びの子供よりも真っ黒な作業着に、ライトが付いたヘルメット。
「おう、かつや来とったか」
友達のおっちゃんが笑顔で声をかけてくれる。墨を塗ったような顔に白い歯がキラリと光る。ヘルメットを棚に置き、ロッカーを開けて、まずは一服。地中深くから無事生還した男たちの至福の時か。たばこの煙もこれならカッコいい匂いに感じる。後ろの方に親父の顔を見つけて立ち上がる。
「風呂に入るけん、先に帰っとけ」
そっけない言葉も嬉しい。再びダッシュで帰る。もちろん満足げな顔で、ウルトラマンの歌なんか口ずさみながら。
 日本の高度成長の一端を担った炭鉱の島。私だけのセピア色の想い出である。